金先物市場が生まれた日【7】

2023-04-10

金取扱いの実績作り、「東金会」の設立

 金先物市場の創設準備を進めていた1981年、田中貴金属など地金業者の消極姿勢に対抗すべく、大手商社に照準を合わせて無事協力を取り付けた商品先物業界だったが、次は業者自身にクリアすべき課題があった。
 当時の商品先物業者は「取引員」が法的な正式名称だったが、商品先物市場は当業者主義のもとで会員登録した現物業者の参加が前提とされており、その条件を満たした上で初めて会員以外の売買注文を市場に繋ぐことができる取引員としての資格が付与されていた。これらは「みなし当業者」と呼ばれていたが、つまり金についても現物業者としての実績が必要となったのである。
 ところがほとんどの商品先物業者は金の取扱い実績がなく、これをどう作るのかが問題として浮上していた。
 そこで一計を案じたのが東京繊維商品取引所の取引員協会で、金現物取引の実績を主目的とした「株式会社東金会」を取引員主体で設立したのである。具体的には金現物市場の開設であったが、これが同年5月29日のことで、戦後初の金公開市場との触れ込みで立会初日にはテレビ、一般紙、専門紙など報道陣200人以上が詰めかけた。
 だが東金会は実際のところ、金先物市場創設時の参加申請許可を得るための実績作りに過ぎず、会員相互で金の売買を行い取引ボリュームを稼いでいたというのが実情であった。こうした動きは結局ブローカーという業態が認知されていなかったことの裏返しであり、現在とは隔世の感がある。
 ただしペーパー上の取引であったとしても、大手商社は取引員にしっかり手数料を請求し、これが案外にいい商売となった模様だ。東金会は商品先物業界にとって切羽詰まった末の行動ではあったが、これら一連の流れは情勢の変化を間近に見ていた在京の取引員であったからこそ対応できたともいえる。この時代、東京と地方との情報ギャップは如何ともし難いものがあり、東京の最新情報は全協連を経てそのメンバーである各単協の協会長が地元に帰って事態を報告する手筈であったが、こうした伝達体制が様々な事件も生んだ。


業界内の情報格差、単協加盟方式の弊害

 かつて商品先物業界は、社会的な認知が得られない分、欠損部分を政治力で補った。当時の通産官僚が業界を痛烈に叩くこともあったが、最後の一線で妥協の姿勢を見せたのは政治力が大きく関与していたからだった。
 金上場においても業界の政治力は如何なく発揮され、個々の業界人においても永田町詣では続いた。当時「Futures Tribune」を発行していた(株)経済ルックは業界政治運動の一端に関係していたため、どこの何先生に誰が協力を仰いだとか、何党に誰が説明に行ったなどの内容が逐一集まっていた。
 こうした情報は当然紙面で活字になることはなかったが、全協連には共有されており、前述の体制に沿って各単協の協会長が地元に報告する運びだった。ところが各地の協会長が説明下手だったり、あるいは悪意があったりした場合は、地方によっては関連情報がまったく伝わらないこともあった。
 実際、当時の記者が大阪のある取引員に別件で電話取材した際、話題が金先物市場への参加申請手続きへと移ったが、その時は申請受付のタイムリミット間近であったが当該取引員は何の準備もしていなかった。つまり情報がまったく伝わっておらず、途方に暮れた先方に本紙記者が対処法をアドバイスし、どうにか事なきを得たこともあった。
 この当時関西地区の協会長は複数人いたが、後日調べてみると彼らが懇意にしている社には上記の申請情報が正確に伝わっていたようで、こうした情報伝達の差は単協加盟方式の全協連が持つ弊害といえた。なお、程なくして商品先物業界の団体加盟は業者ごとの直接方式へと改められた。


金の受け皿強化へ、業界拡大に向け東西取引所の合併構想

 金先物の上場が現実的になってきた頃、取引所も動き出した。東西の商品取引所がそれぞれの地域で合併を画策し始めたのである。東京では在京の4取引所、関西でも地元の3取引所がそれぞれ合併の必要性を主張した。特に在京4取引所の合併構想は、金という大型国際商品の受け皿作りが急務であるとの認識を背景に、やや性急に出された感が否めなかった。
 だが東京においては東京繊維、東京ゴムに加え、農水所管である東京穀物、東京砂糖まで関わってくるため、事は簡単ではなかった。この時は日経紙上にも「東京商品取引所構想」として報道されたが、結果的に合併は省庁を分け2取引所ずつに落ち着いた。
 一般的に取引所の数が減ることは、業者の経営コストを下げ、投資家や市場参加者の取引コスト低下にも繋がる。さらに取引を集中させることで取引所の体力を増大させ、国際競争力の強化という付加価値も付く。一方で、主務省にとっては天下りポストの減少に繋がるが、金上場のような大きな構想の前では諸々の対立を超越し主務省と業者が一体となり突き進めることがこの時証明されたのであった。


商品先物業界と政治家を繋いだ「互進会」

  金上場運動が本格化していた1981年当時、商品先物業界ではその政治力を発揮すべく「互進会(ごしんかい)」という政治団体が存在し、政治家と商品先物業界とのパイプ役として機能していた。この事務局を担当していたのが前述の経済ルックであり、取引員経営者と政治家との関係構築に大きな役割を果たしていた。
 互進会の会長は商品先物業界の最重鎮であるカネツ商事の清水正紀社長で、事務局長は「Futures Tribune」を創刊した経済ルック創業者の木原保会長が務めていた。互進会の具体的な活動は、月に1度有力政治家と取引員経営者が帝国ホテルで朝食会を行い親睦を深めるというもので、この朝食会が金上場へ向けた動きの中でかなり重要な役割を果たすことになったのである。当時互進会の運営を担っていた経済ルック創業者の実子である木原典社長によれば、取引員側の会員は30人(30社)ほどで、非会員の取引員もいたが、そうした社は必然的に状況の進展に対しかなりの後手を踏むことになったようだ。さらに、朝食会の開催準備においては政治家、主務省(通産省)、会員との緊密な連絡が欠かせず、「政治活動は表に現れるものよりそこへ至るまでの根回しがすべてであり、多くの重要なことがその過程で決まっていく事態を目の前で体験した」と後年述懐している。
 なお互進会活動の余禄として、経済ルックはその後しばらく通産省と蜜月関係が続くことになる。大蔵省と金を巡る管轄バトルに興じていた通産省にとって、喉から手が出るほど欲していた政治家のバックアップを互進会が握っていたので、蜜月関係は必然ともいえた。結果的に当時の取材活動は大変やりやすくなり、門戸が開かれた分、他紙に先んじたスクープが数多くもたらされることとなった。
 これらの背景として、当時の商品先物市場はやはり農産物主体であったという事実が挙げられる、いくら商品先物業界が農水省・通産省の共管といえども、主役はあくまで農産物(農水省)だったのである。

(以下、続く)

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通産省が狙った商取行政のヘゲモニー奪還

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証券業界vs商品先物業界、金先物を巡る決死の綱引き

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