金先物市場が生まれた日【6】

2023-04-03

証券業界vs商品先物業界、金先物を巡る決死の綱引き

 金取引所設立において、商品先物業界を主軸にする方向で話が進められることを危惧した証券業界は、状況をひっくり返し主導権を奪還するため証券3団体で1981年4月7日、「金市場研究会」を設置した。
 大手4大証券(野村・山一・日興・大和)を含む13社の証券会社で金取引所の設立に向けた具体案をまとめるための小委員会も設置した。
 さらに4月17日には具体的作業を行うためのワーキンググループを発足させている。それと並行して世界の金市場を調査し、1カ月で完了させるという急ピッチのスケジュールを組んだ。
 証券業界の構想は、大蔵省の意を汲んだ形で金を「ニア・キャッシュ」と捉え、金取引所設立を日銀と絡めて進めていこうとするものだった。このため商品先物業界が金を扱うことは現実的でないとする理屈で議論を仕掛けてきた。
 これも行動が早く、証券業界はまず6月に大蔵省とすり合わせを行い、その後7月には大蔵省と通産省の金を巡る再度の綱引きが行われるはずだと踏んでおり、最低でも「折り合いつかずの引き分けで両省共管」に持ち込むよう働きかけるつもりでいた。
 なおこの当時銀行は、富士、住友、東京の3行が金取引所問題に高い関心を示し、第一勧銀、三菱、三和は態度を明らかにしていなかった。
 対する商品先物業界は、安倍晋太郎政調会長から金取引所設立に関するプロジェクトを任された斎藤栄三郎参議院議員が、金取引所はニューヨーク商品取引所(COMEX)の金市場を参考にする旨を公言していたこともあり、COMEXに関する規定の翻訳に着手していた。
 こうした中で突き付けられた証券業界からの宣戦布告に対し、「銀行、証券が出てくるのなら、商品取引所に債券、為替、金利もよこせ。アメリカでは先物に関しては商品・証券・金融も含む統一法でやっている」と反論している。
 ここで商品先物と証券、互いの主務省に目を向けると、金取引所の大蔵省主導に絶対反対の通産省も、4月の時点で翌5月の商品取引所審議会に持ち込み、遅くても8月中には金を政令指定商品とし、年度内の1982年3月までに金取引所を開設する算段であった。そのため当時商品先物業者が進めていた東金会などの私設市場について「実績作りのための勉強会にとどめるべし」との御触れを出している。
 大蔵省も対抗すべく5月7日、先物取引に係る証拠金や差金に関する国際間の受け払いについて「これらは外為法上許可を要する」として金の先物取引について「改めて外為省令で金を指定商品とする」と主張した。さらに金取引所の参加業者に対しても「大蔵省が指定することにより、証拠金等の国際間の受送については許可不要の措置を講ずる」と、外為法の省令を都合よく改正した。
 この改正は、金の先物取引を国際的ビジネスに展開しようとしている商品先物業者は、大蔵省の指定業者に認められない限り金先物に係る証拠金や差金の受送信は不可とするもので、こうした下地を形成した上で金取引所への介入措置を講じて来たのである。
 対する通産省は5月22日、「金の政令指定」および「非上場商品に係る先物市場開設並びに海外商品取引所における取引の勧誘問題への対応のあり方」について商取審に諮問した。そこで金の政令指定を先決することを条件にし、6日後の28日、「金取引に係る省令の改正を是」とする答申を行った。
 なお同日は証券サイドも金市場問題研究会の第2回会合を開催し、6月中に「証券業界における金取引のマスタープラン」を作成し、7月に大蔵省並びに自民党と折衝の上で7~8月頃に商品先物業界と懇談の場を持つことを決議していた。
 こうした動きに対しても通産省は当初の方針に沿って9月16日、規定方針どおり金を商取法に基づく政令指定とし、同月26日に施行した。
 これにより証券側のマスタープランは日の目を見ることなく幻に終わったが、同プランは政治家を取り込むためかなり話を盛りハッタリをきかせていたことがわかっている。具体的には「商品先物業界が金取引所を作ったところで年間200億円ほどの税収にとどまるが、証券業界主導の金取引所では5,000億円の税収が見込める」などと記載していたようで、これは安倍政調会長が爆弾発言時に放った「金取引所を作って大いに商売をしてもらい、取引税をたくさん納めてもらって…」とのコメントを盛り込んだプラン内容である。
 実際の見込み額は500億円だったが、政治家を説得するためゼロをひとつ加えて5,000億円にしたというのが真相のようだが、商品先物業界の全協連事務局がこのマスタープランを取り寄せたところ、500億円に直っていたという。
 大蔵・通産両省に関しては表から見える一連の動きを経つつ、おそらく水面下でも相応の駆け引きがあったに違いないが、結果的に金取引所問題は通産省の勝利に終わった。大蔵省は9月22日、最後に「金を資本取引と同様、外為法に基づき有事規制の対象とする」と定め、矛を収めた形となった。
 金は9月16日付で政令指定され、商品先物業界は金取引所設立に向け突き進むこととなる。年度内という目標もすでに折り返しに差し掛かり、残された時間は半年あまりしかなかった。


現物ガリバー・田中貴金属の断固反対、地金業者あきらめ大手商社に照準

 ここで視点を変えて、当時の商品先物業界内部を掘り下げると、1980年12月の安倍政調会長発言で、にわかに現実味を帯びた金上場に対し、業界は当然盛り上がった。1981年2月の全協連理事会で金問題に関し説明した多々良義成会長が、商品先物業者に向け大同団結を訴えた。業者の中には、自民党のバックアップを受けたことで金取引所設立を当然視する向きもあったが、楽観ムードを戒める意味もあった。
 実際、田中貴金属をトップとする金地金業界は金取引所設立に消極姿勢で、新商品の上場運動においては「当業者主義」という錦の御旗を掲げ続けなくてはならず、この原則からすると避けて通れない問題であった。ただし、徳力など大手業者であっても取引所設立に賛成する業者もあった。だが業界トップである田中の反対は大きな影響力を及ぼしていた。地金業者が少しでも賛成の意を示そうものなら、すぐさま田中から圧力がかかっている様子で、当業者からの賛成票は田中によってせき止められていたといっていい。
 そんな田中の強力な反対姿勢の根源は、創業家の「投機に手を出すべからず」という家訓にあったとされる。真偽のウラは取れていないが、そうでもなければ説明がつかないほど田中の反対は頑強なものだった。
 そこで、商品先物業界が地金業者の代替的参加者として照準を合わせたのが大手商社であった。商品先物として社会的な認知を得るには、三井・三菱・住友といった名前が並ぶ影響力は絶大だった。当然この構想には通産省が裏で関わっていただろうが、結果的に大手商社の金市場参加に関する取付けは成功した。だが彼らの動向次第では通産省が大蔵省との省益戦争に敗れていたかもしれず、薄氷を踏む展開だったといっていい。
 当時、大手商社は商品先物市場に参加し、それなりに市場を有効活用していたが、金上場後その価値に改めて気づき積極的な取引を行うようになる。結果的に金市場創設への名義貸し料としては余りあるほどの対価を得た。

(以下、続く)

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金取扱いの実績作り、「東金会」の設立

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