金先物市場が生まれた日【8】

2023-04-24

通産省が狙った商取行政のヘゲモニー奪還

 1980年代はじめ、通産省の管轄商品では毛糸の出来高が多かったが、毛糸にしてもゴムにしても農産物と比較すると取引量は10分の1にも満たなかった。金上場を巡る動きに際しても農水省はどこか鷹揚に構えていた節があるが、農産物との差は簡単に埋まらないという油断があったのかもしれない。
 通産省がこの時どれほど商取行政のヘゲモニー奪取を意識していたかはわからないが、実際に着々と外堀を埋めていったことは確かであった。この時のキーマンが後に東京商品取引所社長となる通産省の江崎格商務室長で、同氏が在任中に描いたビジョンがその後数代の室長に引き継がれ具現化していった。
 それが公式に世に出たのは宮本恵史室長の在任中で、そのため「宮本ビジョン」と呼ばれたが、実際大本の構想は江崎時代に完成されていたものであった。
 話を戻すと、金取引所設立に向けた動きが佳境に入った同年暮れに、日本弁護士連合会が通産省に対し意見書を提出した。内容はもちろん「金市場創設は時期尚早」というものである。
 「金先物取引被害防止に関する意見書」と題された同意見書では、全編にわたり先物取引を「詐欺」と断定し、すべての被害者の損金は無条件で返還されるべきとの考え方に立っていた。
 日弁連がここで金先物取引と呼んでいるのは、実際は当シリーズ前半で特集した「金私設市場(金ブラック)取引」のことであり、金ブラックがこれほど問題化している中で通産省が創設しようとしている金先物の公設市場も、法専門家の立場からは賛成できないという、ブラック市場と公設市場を一緒くたにした言いがかりに近い内容であった。
 これを受け取った江崎室長は「通産省の考えている方向も同じである」としながらも、早期開設の意向は変えなかった。つまり、やんわりと受け流したのである。このような柔軟性を持った人物がこの時期通産省で商取行政に携わっていたことは、業界にとって大きくプラスに作用したといっていいだろう。


証券会社が試みた金市場参入、「異文化」の壁が阻む

 金市場創設を控えた周囲の動きの中で、それほど目立つものではなかったが、いくつかの証券会社が商品先物市場への参入を予感させるような行動を見せた。
 一例として、江口商事に三洋証券が、貴志商店に新日本証券がそれぞれ資本参加することを決めたことなどが該当するが、一方で金先物への参加資格を得るためには純資産を積み増さなければならないという商品先物業者からの要請もあっただろう。
 証券と商品は昭和30年代の後半に至るまで、同一企業の兼業が認められていたという歴史がある。これは後になって禁止されたが、証券と商品を別法人として分断し両方とも存続させるところもあった。
 上記の三洋証券と江口商事ももともとは1つの法人であり、このほか岡三証券と岡藤商事、山種証券と山種物産などがこのパターンに当る。これらの企業が主務省の境を超えて証券と商品を両方抱える企業体を残した。ただし証券と商品に聳える壁は時代を下るに従い、より強固なものとなり、時間の経過とともに著しい文化の違いとともに業界規模の格差をもたらしたのであった。
 そうした状況下で証券会社が商品先物業者からの純資産積み増しの要請を受諾した理由は、やはり金という特別な商品がモノを言ったことは間違いないだろう。言い換えれば金先物市場を大きなビジネスチャンスと見ていたことに他ならない。
 こうした流れはやがて三洋コモディティーズ、ダイワ貴金属など証券系の取引員会社の誕生に繋がっていった。商品先物業界はある種閉鎖社会の色が濃かったこともあり、通産省はこの風潮を歓迎した。外からの血が入ることにより停滞する商品先物業界を変え、金先物市場の中心的な推進力になってもらいたいとする希望を持っていたようだ。
 ただし当の商品先物業界は、危機感を持ったわけでもなく、むしろあまり関心がなかったと言えそうだ。理由は自社を金先物市場開設と同時に取扱業者として確実に参加できることが何より一大事だったからである。
 最もそれ以上に「証券会社が商品先物市場に参加してもうまくいくはずがない」という確信を持っていたことが大きいかもしれない。これは当時の様々な業界関係者が共有していた認識であった。
 結果的に、この認識は的中した。理由は証券営業と商品営業の決定的な違いといえた。特に対面営業でその差異は際立った。例えば株をたくさん売れる証券営業マンが商品を売った場合、大抵は売れずに終わることが多かった。これは投資家側の受け止め方が違うからである。
 現代のネット中心による取引であれば当時ほどハードルは高くないだろうが、株式と商品には両サイドともに他方に対し抵抗感が強かったことも事実である。
 実際、証券系取引員の初代社長となった人物が「我々には証券営業で集めてきた優良投資家のリストがたくさんあるから」と、商品先物市場の参入に自信を覗かせる発言をしていたことがあったが、結果はやはり無残なものとなったのであった。


初代理事長に渡辺佳英氏が内定、江崎室長が説得し招聘

 東京金取引所の初代理事長に渡辺佳英氏が内定した。同氏は内閣法制局から通産省に入省し、その後民間企業の経営にも長く携わっただけでなく、中小企業金融公庫総裁のポストも経験し、理事長就任の前職は国際商事仲裁協会副会長の座にあった。つまりは「大物OB」という位置づけだったが、当時氏の名を知る商品先物業界人はほとんどいなかった。
 むしろ証券業界の方で名が通っていたようで、本紙(Futures Tribune)記者が関係団体を回ったところ「随分すごい人が来ましたね」と言われたそうだ。
 ただ渡辺氏は当初理事長就任に難色を示していたとされている。同氏を説得したのが前述の江崎格商務室長で、江崎氏がたまたま渡辺氏の息子と学校の同級生であり、その縁で度重なる説得を続け招聘にこぎつけたという話がある。
 金取引所のスタートに際し、参加業者の定数は40社と決まり、そのうち商品先物業者に割り振られたシート数は30だった。残りの10シートは当業者や商社などに与えられることとなった。

(以下、続く)

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金先物取引、開始時点で参加業者が144社に

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金取扱いの実績作り、「東金会」の設立

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