金先物市場が生まれた日【3】

2023-03-05

法八条の逆転解釈で業界激震、黒船来航に丸腰無抵抗

 通産省が国内商品先物市場に対し、それまでの規制による抑え込みから国際化に向けた市場拡大へと行政方針を転換させつつあった1980年、当の商品先物市場は米国からの市場参入に香港取引所の攻勢という情勢に加え、金ブラック業者問題が絡み混沌としたムードに覆われていた。そんな中、混乱に拍車をかけたのが「商品取引所法八条逆転解釈問題」であった。
 法第八条とは、商品市場類似施設の開設の禁止を規程したもので、同年2月1日付で社会党の松浦利尚衆議院議員が大平正芳首相に宛てた「金の先物取引に関する質問主意書」が問題の発端だった。
 経緯を詳述する前に問題の概要を簡潔にまとめると、まず上記主意書に対し「金ブラック業者問題は商取法で取り締まれない」ことを意味する政府見解が出されたことで、この逆転的な解釈が意味する重要性により、商品先物業界は自らの足場が音を立てて崩れ行くほどの大激震が走ったのである。
 具体的には内閣法制局が商取法八条で規程されている商品以外の物資についても類似施設を開設することは禁止されているという部分を「そう解釈するには無理がある」との見解を出したこととなり、政府が指定した以外の商品であればいつでも国内に市場が作られてしまうという恐怖が商品先物業界を席巻した。
 これに対し通産省は「金ブラックは詐欺であり、警察が介入し解決に向かっている」と商務室長が業界に向け説明したが、実は業界が本当に恐れていたのは金ブラック業者ではなく、じわじわと攻勢をかけてきた海外先物だったのである。
 香港勢はまさにこの時、金先物の上場準備を進めていたが、金は商取法の指定外商品であり、もし金が香港で上場されその営業部隊が日本に上陸した場合、商取法では何の手出しもできないことは明らかだった。そんな事態になれば国内金先物市場の創設どころではなくなる。
 八条逆転解釈は商品先物業者に「香港勢に身を投じるか、反対にこれを叩く側に回るか」究極の決断を迫っていた。
 これについては当時業界を二分した市場の国際化について詳しく見ておく必要がある。時期は八条逆転解釈2年前の1978年に遡る。この年、米国商品先物取引委員会(CFTC)のウィリアム・バーグレー委員長が9月に来日し、にわかに米国業者の日本進出が話題となった。これを黒船来航になぞらえるほど商品先物業界は過剰な反応を示したが、これには伏線があった。


咬ませ犬たちの革命、香港の地に夢見たエリート雑草逆転劇

 それは香港商品取引所を巡る動きで、当時大手商品先物業者であったエース交易(廃業)の経営者が中心となり、香港政庁も巻き込んで明らかに日本からの注文受託を想定したとしか思えない取引所の改変が実行されていたのである。当然エース1社のみならず、多くの商品先物業者や関係企業が加わっていた。
 新生香港商品取引所の輪郭は徐々に明らかになったが、一言でいえば日本の取引所のコピーであった。そもそも取引所の名称自体、中国社会で「期貨交易所」が一般的であるところを敢えて「商品取引所」と中国人には耳慣れない呼称を採用した時点で、香港組のビジネスターゲットが日本だったことを示している。
 前述した米国勢の黒船来航に過剰反応した層も、時間が経ち冷静になると先物業界としての彼我の差にある種の諦念を抱きつつ、米国が日本市場を乗っ取るなど杞憂に過ぎないと胸をなでおろした。だが香港の方はそういかず、エースをはじめ大手の商品先物業者が絡む話でもあり、何より地理的にも近く時差もわずかということで、日本のライバル市場の誕生という懸念が真実味を帯びていた。
 香港勢への参加は、在京の大手数社のほかは関門系の商品先物業者が占めていたが、主務省と取引所で構成された業界に対する支配体制へのアンチテーゼという側面が強かった。だがこうした動きに明確に反対の意を唱える層も当然少なくはない、というより在京では反対派が大勢を占め、当初から香港組に対し反対の姿勢を取り、日本市場の専守防衛に走った。
 商品先物業者と取引所は一蓮托生であり、このアイデンティティを失ってはならないとの意識が反対派に働いたことで、結果的に香港組は異端の存在に終始することになったのである。主務省も早々に何らかの規制的措置を取ると公言し、取引所も香港組に冷たい視線を送った。
 だが香港組も簡単に引き下がるつもりはなかった。「主務省―取引所―当業者―大手商品先物業者」というヒエラルキーの中で、非大手の業者にとってはひたすら抑圧に忍従しながらも主流派に上がれないという現実を打破し、一発逆転を狙う唯一の選択肢が香港であり、「革命」の成功に会社の将来を賭けていたのである。
 香港組の中でも批判の矢面に立たされたエースの経営者だが、取引所の理事長ポストに就いていたので仕方がなかった。業界内を歩けば唾をかけられ、石つぶてが飛んでくるような状況下にあっても、団体の事務局を堂々と歩き、臆することなく振舞っていた。
 実際、もし香港組が国内での受託注文全量を香港へ運ぶ事態になった場合、その後の勢力図はかなり変わっていたはずである。そんな想像が現実味を帯びていたからこそ、香港組は国内商品先物にとって脅威となり得た。
 この香港問題は後に「海外ブラック問題」へと、負の部分を肥大化させながら展開していくことになったが、これが香港ムーブメントの腰を決定的に折った。つまり「ブラック」という称号がついたことで、香港組に追随しようとする動きがピタッと止んだのである。この結果、エースの経営者が香港で試みた革命は反乱止まりで終結したが、国内商品先物業者は「問題を起こしているのは金や海外のブラック業者であり、我々は政府の認可を受けて営業している正規の業者である」という営業トークを取り入れ、したたかに有効活用し、結構な営業成果を導いたのであった。

(以下、続く)

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