先物市場、明治から昭和初期までの動乱【中】
画期的な取引所法の制定
その結果1892年(同25)、新しい取引所法案を立案、帝国議会に提出、翌年3月、法律第5号「取引所法」として発布に至ったのである。
同法の画期的なところは、株式会社制度取引所と、非営利団体の取引所の両種を認めるという、海外にも類例をみない特異な形式だったことだ。
いわば取引所が、国家的な経済機関として法令によって設立される運びとなった記念すべき立案であったのだ。
同法の特徴は、①「米商会所条例」、「株式取引所条例」、「取引所条例」を統合して一本の法律としたものであり、しかも行政的監理も統一しようとした、②従来の米商会所条例の原則と“ブールス条例”の原則を折衷してまとめたもの―となっていることだ。
内容は次の通りである。
- ①取引所の設立は、一地区に一取引所を限り、これを許可する。
- ②取引所の組織は、株式会社組織であっても、また会員組織であっても、いずれにおいても可としたこと。
- ③取引所市場における売買に参加し得うるものは、会員または仲買人に限定し、会員は自己計算による売買のみを行うことを許されるが、仲買人は自己の計算による売買と他人の委託による売買との両方を行うことが許される。
- ④売買取引の種類は、直取引、延取引、および定期取引の三種とし、定期取引のみは、単位取引、標準物売買、競売買、転売買戻し差金決済、および売買証拠金の徴収を許される。
- ⑤株式会社組織の取引所は、売買手数料として約定価格の千分の八以内を徴収することができる。
- ⑥株式会社組織の取引所は、違約によって生じた損害を賠償する責に任じなければならない。
- ⑦取引所以外の場所に於ては定期取引類似の売買仕法によって物を売買取引することを許されない。
株式会社取引所の乱立と取引所法改正
さて、この「取引所法」によって取引所設立が一種のブームを呈することになった。
ちょうど日清戦争の勝利によって経済界が活況を示したこともあって株式会社組織の取引所が全国各地に乱立したのである。
これらの取引所の大半は商品取引所であって、資本金は3万円から10万円という小規模のものが多かった。会員組織の取引所は、わずか7カ所が最高であり、株式会社取引所の乱立は同法本来が意図した狙いから外れる展開となったのである。
しかも、これらは実物取引がほとんどなく、東京、大阪中央取引所の相場を基準とする、いわゆる「相場張り」という賭博的傾向を帯びた定期取引であったため社会的弊害が目立ってきたのである。1901年(明治34)には米価大高騰で、全国の米穀取引所の立会いが停止となる騒動もあった。
そこで政府は、1902年(同35)6月、取引所法を改正する勅令を行った(勅令第158号)。
- ①取引所の資本金を、最小3万円から10万円に引き上げる。
- ②取引所の利益配当金が年1割以上の場合は、その半額を「賠償責任準備金」として積み立てることを義務づける。
- ③株式の定期取引は、最高3カ月を2カ月とする。
- ④米穀取引所における「受渡代用米」の格付表を定めるには、主務大臣の許可を受ける必要がある。
- ⑤取引所仲買人の営業免許料は、それまで30円だったが100円に引き上げる。
1902年当時、株式会社組織の取引所は“77カ所”だったが、そのうち実に“66カ所”が、資本金10万円以下の小規模取引所であった。
だから最低資本金の引き上げと限月の短縮は、小取引所の整理統合と、過当投機の防止を企図したものに他ならなかった。
もっとも、1895年(同28)~1897年(同30)におけるこの米穀取引所の乱立に関しては、「この早くからの先物市場の発展は、米流通の投機性が、先物取引の発生をうながすとともに、先物取引の投機性によって正米取引の危険を、逆に保険する意味があったのである…。(中略)」
むしろ、貢租米流通が、すべて商品流通に切り替えられるにおよんで、小ブロック市場が叢生し、それらがそれぞれ独立した価格形式を行うに至って、ブロック間の価格水準差、変動型の差はいっそう正米取引の投機性を拡大していった。それはまた、定期米取引を生み出す格好の地盤だったのである。」(持田恵三「米穀市場の展開過程」東京大学出版会、38頁)という評価も下されていることは、留意する必要があるだろう。
<続く>
(Futures Tribune 2019年12月3日発行・第2969号掲載)
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