10.19ブラックマンデー、脚光浴びた商品ファンド【下】
2024-10-28ブラックマンデー(1987年10月19日)発生後、株式や債券相場などとの悲相関性が認知された商品ファンドは、その後5年間で規模を4倍にするなど順調に成長していたが、1990年代半ばに突如失速する。主な要因とされているのが年金基金の撤退で、バージニア年金基金の撤退はその象徴として捉えられてきたが、商品投資顧問(CTA)の投資手法に対する疑問の声も多かった。また、アメリカにおいて先物ビジネスへ参入する際、業者が各州へ支払う登録料なども非常に高額で、商品ファンド関係者にとって悩みの種であった。
商品ファンドの誕生とブラックマンデー後の躍進
商品ファンドは1949年(昭和24)、米国で誕生した。初ファンドの名称は「フューチャーズ・インク(Futures Inc.)」だった。日本では同年商品取引所法が成立し、ようやく戦後初の商品取引所となる大阪化学繊維取引所が設立登記(10月17日)された頃である。同ファンドには約100万ドルの投機資金が集まった。理由は設定者にあった。
設定者のリチャード・ドンシャン(Richard Donchian)はこの当時、商品先物取引を中心に大きな投資成果を上げており、「自分の資金も運用してほしい」と依頼する声が絶えなかったからである。
まだ分散投資という概念すらなく、商品ファンドの関連法も当然存在しなかった。ドンシャンは商品ファンドの受託運用業者(CPO=Commodity Pool Operator)というより、むしろ投資顧問業者(CTA=Commodity Trading Advisor)の立場であったといえるだろう。
ところが当時、先物市場の規模はまだ発展途上の段階で、機関投資家が参加意欲を示さなかったこともあり、同ファンドは大きな発展を遂げることもなく商品ファンドは1960年には1回姿を消している。だがドンシャンのファンド設定および運用手法は後世に大きな影響を及ぼした。
5年後の65年、CTAとなったドン・アンド・ハーギット(Dunn & Hargitt)が初の組織的商品ファンドを組成した。これは1口2,000㌦、CTAの手数料は年175㌦という設定だった。だがこのファンドは女性や少数民族の口座開設を拒否したともいわれており、売れ行きも伸びなかったとされる。
その後もスポット的に商品ファンドは組成されるものの、金融商品としてメジャーな存在になるまでにはまだ長い年月を必要とした。ただし70年代半ば以降、米国では商品ファンドに対し関連法制の整備が進み始める。
74年、米国における商品取引所法(CEA=Commodity Exchange Act)が大幅改正され、初めてCPOやCTAに関連する規定が盛り込まれた。同時に米商品先物取引委員会(CFTC=Commodity Futures Trading Commission)が発足した。2年後の76年にはCPOおよびCTAが登録制となり、規制整備がさらに進んだ。
ルールが明確化したことで米国ではその後、商品ファ ンドの設定が増加傾向をみせ る。だが金融商品として市民 権を得るのは 1980年代半ばで、さらにブラックマンデー(1987年10月19日)後、爆発的な普及をみせ金融商品の主役に躍り出た。ブラックマンデーはニューヨークで株式が大暴落した金融史に残る一件で、ダウ平均は508ドル、22.6%値下りという史上最大の暴落幅を示し株式投資家は大ダメージを負ったが、商品ファンドだけは全体的に高収益を上げたからである。商品価格が株式ほど値下りしなかった背景はあるが、売りからも収益を上げられるという商品先物の特性が活かされた形となった。これ以降、機関投資家も積極的に商品ファンドを利用し始めた。
同年12月にはイーストマン・コダック社の年金基金が商品ファンドに5,000万ドルを投資し、翌88年にはディーン・ウィッター社が1日で5億3,100万ドルもの商品ファンドを販売している。90年にはミント社の運用資産が10億㌦を超えた。アメリカの商品先物市場は70~90年代にかけて年率15%の規模で拡大していた。商品ファンドはブラックマンデーの87年以降5年間で4倍増という勢いで伸びていったのである。
90年代の失速、年金基金の撤退が背景に
ブラックマンデー発生後、順調に伸びていた商品ファンドだったが、90年代に入り失速していった。主な要因として年金基金の撤退が指摘されている。ただし資金の引き上げの背景には運用成績の悪化というより、バージニア年金基金の例では運用管理責任者がより手堅さを重視する担当者に代わったなど、人事的な理由によるものであった。
アメリカの商品ファンド失速について主に指摘されている理由は以下の4点である。
①バージニア年金基金が4億6,000万ドルの資金を引き揚げたこと
②株が好調なことから株式ファンドに人気が集まり、投資信託にシフトしたこと
③公募ファンドのうち30%しか利益を上げたものがないというパフォーマンスの不振がみられたこと
④オレンジ郡のデリバティブ取引の失敗などで商品ファンドへの不安が高まったこと
さらに商品投資顧問(CTA)の投資手法が商品ファンド衰退の一因にもなったと指摘されている。具体的に当時はCTAの運用はテクニカル分析などを重視するトレンドフォロー型が主流で、同じタイプのCTAが巨額資金を市場に投じたため売買が成立せず相場の動きが止まったとされるものである。
ここで95年3月に日本商品ファンド業協会がまとめた「米国商品ファンドに関する実態報告書」をみると、管理報酬を4%とすると成功報酬が20%、管理報酬がゼロなら成功報酬は32%と、その度合いに応じて決定する倍愛もあるという。またファンドの管理オペレーター(CPO)についても、管理報酬は1%だが管理する資金が1億ドルなら0.7%にするといったようにケースバイケースによる対応でもあった模様だ。
「コモディティ戦争~ニクソンショックから40年」を著した阿部直哉氏は、当時のアメリカで先物業界を取材していたが、同氏によると当時、成功報酬については20~25%というのがヒアリングした平均値であったという。先物ビジネスへの参入については、業者が各州へ支払う登録料が発生するが、これが平均して州ごとに2,000~3,000ドル、全米で登録した場合7万5,000ドルほどの負担が生じた模様だ。商品ファンドの衰退は、こうしたCTAのコスト問題も無関係ではないだろう。
(Futures Tribune 2024年10月15日発行・第3318号掲載)
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