近代コメ流通機構の形成[明治期編]【2】

米商会所条例発布、取引所が正式に営利団体となった日

 1876年8月、太政官布告により「米商会所条例」が定められた。これは米商会所を営利団体と位置づけ、仲買人を米商会所と分離し米商会所が仲買人を監督することによって従来の米相場の弊害を除去しようとの目的で成文化されたものである。
 同条例は米穀先物取引に関する成文法の嚆矢といえるが、2年前の1874年10月の株式取引条例、翌年5月の米穀相場会社準則が発布されたものの共に機能しなかったという政府の失敗が土台にある。
 政府は米価対策として別に貯蓄米条例を発布し、東京に10万石(15,000t)、大坂に5万石(7,500t)のコメを備蓄することとし、他方、米穀先物取引に対する政策を考察した結果、米商会所条例の発布に至ったのである。今でいう商品先物取引法で、取引所を営利企業という位置づけた画期的な同条例により米穀先物市場の新設、従来の米油会所の更改、設立が実現した。
 もちろん江戸時代にも営利目的の市場運営は行われていたが、これを公に認めたことで主要都市に存在する正米市場は米商会所の降雪が可能となった。
 また株式会社組織の米商会所は、国立銀行を除きわが国で最初の株式会社といってよく、日本の株式会社制度は米穀取引所から始まったともいえるのである。
 なお同条例が発令された初年に設立された会所は、蠣殻町米商会所、兜町米商会所、京都米商会所、大阪堂島米商会所、赤間関(下関)米商会所の5カ所であった。
 翌1877年(明治10)には桑名米商会所、名古屋米商会所、近江米商会所、兵庫米商会所、岡山米商会所、金沢米商会所、新潟米商会所、徳島米商会所、松山米商会所の9カ所が加わり、1884年になると、野蒜米商会所、酒田米商会所、高岡米商会所、博多米商会所の4カ所が新設され米商会所の数は18に及んだ。


市場の声を無視、政府の取引所条例に批判が殺到

 1887年に制定された「取引所条例」(ブールス条例)は、当時銀貨の投機取引があまりに過当に流れたため、取引所の組織および取引方法に欠陥があるとして同条例発布に至った経緯がある。加えてブールス条例により一挙に国内の取引所を会員組織化することと実物市場化するという、政府の意図が大きく反映されたものともいえた。
 政府は取引所が株式組織であるがゆえに利益を上げ、それを株式配当に回すため投機が過熱しているのではないかとの先入観を持ち続けており、強引な法制化を狙ったものであった。
 結果的にブールス条例はほとんど日の目を見ずに終わり、空文化したとの指摘もあるが、その成立過程に取引所制度の論争が活発化したという事実もあり、少し掘り下げてみたい。

 この時代、政府は軍備拡張の財源確保に向け先物取引に対し重税を課していた。さらに税収を増やすため場外取引などに対する類似取引に対しても取締まりを厳重にし、告発者に懸賞金を出すなどの制度も導入した。
 このため米商会所の取引は一時衰退し、現物のヘッジさえ困難となる状況であった。結果、そもそもの目的であった税収の増加も、取引量が減ったことで当初の見込みを大幅に下回った。さらに場外取引に逃れようとした者が密告により大量検挙される事例が出たことで、先物市場に対する世間の印象を著しく落とし多くの批判を受けた。
 こうした結果に対しても政府は、その原因は根本的に先物市場の制度的不備だと断じ、新たな取引所制度の創設に向け動き始めたのである。
 政府部内においても農商務次官吉田清成は、先物市場の制度改正に特に熱を上げ、1886年以降、法制局や政府が雇ったドイツ人法律学者ヘルマン・ロエスエルに欧米の諸制度を調査させた。また渋沢栄一、益田孝などの財界有力者にも諮問し、秘密裏に法文を立案し元老院の審議に諮った上で1887年5月、ブールス条例として発布した。
 これにより従来の株式会社制の米商会所や株式会社取引所を営業許可の満期にあたりすべて廃止し、継続して取引所運営の許可を得る場合には株式会社から会員制度に切り替えるよう命じた。
 新設の取引所に対しては会員制でなければ許可を与えず、取扱商品もコメや証券のほか、社会的な重要商品にも拡張するようにした。さらに一般会員と仲買人を区別し、仲買人には自己売買を禁じたのである。
 ブールス条例は独ベルリン取引所の制度に倣ったとされているが、日本の商慣行があまり考慮されず、業界からは反対の声が高まっていった。この当時交わされた条例に対する議論について、「日本取引所法制史論」では賛否両論の要点を掲載している。
 政府は反対の声を無視する形で取引所改革を進めようとしたが、その方針が明らかになると先物市場としては実施困難なものばかりで、旧米商会所や旧株式取引所の関係者のみならず、新しい取引所法の成立に協力していた層までも反対の立場に回り、会員制を推進していた学者らも実情に合わないとして規制に対し批判を始めた。
 この反対運動は日ごと徐々に激しさを増していたため、吉田農務省次官が元老院に転出したことをきっかけに、政府も方針転換を余儀なくされたのである。

(Futures Tribune 2022年6月21日~28日発行・第3150号~3152号掲載)

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