近代コメ流通機構の形成[明治期編]【3】
骨抜きの新法施行が引き起こした取引所の乱立
1888年6月、井上薫が農商務大臣に就任した。市場の声を無視したとして散々悪罵されたブールス条例を方針転換すべく、旧制度下の米商会所および取引所について営業期限の延長を認め、すでに開業の準備が整っていた大阪新取引所に対しては、東京と大阪の既存の4市場から分担して弁償を行わせた。その上で政府は欧米に調査委員を派遣し実情を調査し、再度新たな取引所制度の立案に当たることとなった。
こうして制度改正に向けた作業が開始され、5年後の1893年、「取引所法」の成立を迎えたのである。これにより証券と、コメを含むすべての商品先物取引が一元的に同法で規制されることとなり、取引所の設立については株式会社制と会員制の両方を認め、選択可能とした。
取引所法はその後数回の改正を経ていくが、変更が立法の趣旨である土台の部分に及ぶことはなかった。
つまり同法は旧来の米商会所条例とブールス条例を巧みに折衷したに過ぎず、線引きのやり方によって新機軸が生まれることもなく、単に法律を掛け合わせて新旧両制度を併存させたに過ぎなかった。実施の結果は当然ながら旧制度に即した株式会社組織が相次いで設立され、政府が意図した会員組織の取引所は数えるほどしかなかった。
法が施行された年、新設を認められた取引所は、株式会社制が19カ所、会員制はわずか2カ所であった。その2カ所は近江(大津)油取引所と石巻米穀取引所である。その後、取引所の乱立が進み許可数が最多となった1898年末には、全国で128カ所にまで増加していた。
【ブルース条例の要点】 |
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賛成派 |
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反対派 |
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東京米穀取・東京商品取の合併、史上初の「総合取」が
後の東京穀物商品取引所に当たる東京米商会所は、取引所法の施行に伴い「東京米穀取引所」へと衣替えしていた。前述の取引所乱立を受け東京でも1894年、綿糸、塩、雑穀、油など多彩な商品の先物取引を行う「東京商品取引所」(※現存する同名の取引所とは別)が設立された。同取引所には設立当初から9品が上場されていたことから「九品取引所」との俗称があったものの、取引の中心は塩と大麦であった。ところが1905年6月、主力商品の塩が国の専売制となったことを受け、経営面で大きな打撃を被った。しかもこの時期は日露戦争の終戦直後で、戦後不況の真っ只中にあったことから、他の上場商品についても取引量は減少の一途をたどっており、将来が見通せないほど危機的な状況にあった。
こうした背景もあり、東京商品取引所を東京米穀取引所と合併させようという動きが台頭してきたのである。協議の末合併が実現したのは1908年9月のことで商号は「東京米穀商品取引所」へと改称された。取引開始は同年12月1日で、大麦、綿糸、生糸は多少の盛り上がりを見せたものの、圧倒的にコメの取引量が大きく、上記商品も徐々にコメに吸収されていく形で、ついにはコメ以外の出来高が皆無という状態になった。
だが発足当初、東京米穀商品取は「総合取引所」として位置づけられ、落ち込んだ商品部門の市場育成も課題として残された。その後大正から昭和にかけての東京における先物市場の歴史は、すべて同取引所の変遷史と言い換えることができる。
(Futures Tribune 2022年6月21日~28日発行・第3150号~3152号掲載)
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米商会所条例発布、取引所が正式に営利団体となった日
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