コメ行政の歴史~戦時統制から食管制度の限界【下】

2024-02-29
日経記事(昭和62年6月15日)

海外米の流入を水際で阻止、ウルグアイラウンドの攻防

 さらに80年代以降アメリカは日本に対しコメ自由化の圧力を強め、86年からウルグアイで始まった関税及び貿易協定を交渉するGATTの会議(ガット・ウルグアイラウンド)では、農産物を争点に議論が進んだ。日本のコメに対し、アメリカは高くても関税を設定して段階的に引き下げを図る狙いがあった。
 昭和の時代までコメの輸入を認めていなかった日本だったが、93年(平成5)のガット・ウルグアイラウンドで、聖域であったコメについても最低限の輸入機会(ミニマム・アクセス機会)の提供を行うことが決まった。この輸入米はミニマム・アクセス米(MA米)と呼ばれ、一定量まで低い関税で輸入できるコメを指す。会議では原則関税以外の国境措置を禁止し、全ての非関税措置は内外価格差により関税に転換させるという各国の合意がなされている。ただし日本はコメの輸入実績がほとんどなかったため、86~88年の国内価格と僅かな輸入米の平均価格の差額を関税として設定した。
 当時基準となったコメの国内価格は1kg当たり434円だったが、これは農水省が「上質とされる国産米の卸売価格」から算定し決めたとされている。しかし具体的な品種や産地は明らかにされていない。一方、輸入米の平均価格は同32円で、両者の差額である「402円」が関税となった。つまりこの時点で国産米と輸入米の価格差は10倍以上に広がっていたことになる。
 当初コメについての関税は特例措置として適用された。理由は関税が設定された時「輸入米が入ってくると国産米が売れなくなる」とコメ農家からの大反発を受けたためで、つまり国産米の価格下落を懸念したものであった。このため日本政府が米国などと交渉し、関税化を一時的に猶予してもらう代わりにMA米を毎年増やしていくという条件を受け入れている。日本にとっては苦肉の策であったが、その後の啓蒙活動により「安い関税で入ってくるMA米をこれ以上増やすよりは、高いコメの関税を導入した方が国産米への影響は少ない」という理解がコメ農家に広まったことで、99年(同9)コメは正式に関税化された。
 現在コメの関税は778%となっている。ただし関税の適用方式には①輸入した品目の価格に対し一定の割合で関税をかける「従価税」と、②1kg当たり○円など輸入量に応じて関税をかける「従量税」の2種類の方式が存在する。日本は輸入米の関税に②の従量税を適用しており、正確な関税率は1kg当たり341円となる。778%はこれを従価税に換算した数字となっている。当初設定した402円から下がっている理由は、関税化への移行後、さらに15%下げるという世界貿易機関(WTO)のルールが適用されたためだ。
 結局、関税は国内農業を保護するという意味合いが強いが、日本の国内市場はいずれ人口減少によって縮小する公算が高い。また日本人の食生活の変化も見逃せない要因といえる。大家族がひとつの食卓を囲んでいた時代はとうに過ぎ去り、現在日本の消費者が購入する食品の内訳は、外食30%、加工食品50%に対し、生鮮品は僅か20%である。現代の日本人は農産物を直接消費するより、食品加工業者や外食業者が加工、処理した食物を消費するようになっているのが実態である。当然コメも同様で、家庭の消費量と外食や惣菜で食べる量が拮抗する事態になっている。
 こうなると食品産業の海外移転が本格化する懸念が増してくる。キヤノングローバル戦略研究所研究主幹で農政アナリストの山下一仁氏は「国内農業の規模が拡大せず、農産物の生産コストが下がらないせいで、原料を調達しようにも国内では量も揃わないし、品質も一定しない。その上海外企業と不利な条件で競争しなければいけない――となれば、加工業者にしてみれば必然的に海外に進出する道を選ばざるを得ない」と指摘している。海外では一定規模の農地面積を確保でき、労働コストも低いからだ。当然農産物も現地のものを中心に使うことになる。
 国内の生産者も否応なく攻めの農業に転じないと、いずれ海外の農産物価格を基準に経営せざるを得ない事態になる。ただ、現状少なくともコメであれば、先物市場の復活を前提に日本で価格決定の主導権を握れる立場にある。


食管制度の限界、自由化を前にコメ先物待望論が

 87年(昭和62)6月15日付の日経ワイド記事で「復活!?堂島の米取引所~揺れる食管制自由化へ加速」と題した特集が組まれた(上の写真参照)。
 内容は次のようなものだ。 「『食糧管理制度の先は見えてきた。来年も豊作だったらコメ取引は自由化へ向けて一気にテンポが速まる』。昨年暮れ、大阪穀物取引所(〔93年10月に大阪砂糖、神戸穀物と合併し関西農産商品取引所に、現在の堂島取〕:カッコ内筆者注)の理事長室で、ソファに体を沈めた大杉治理事長は、つぶやくようにそう話した。よもやま話のなかでのこととはいえ、三千店を超える小売店を翼下にした日本最大の米穀卸・大阪第一食糧事業協同組合の重鎮でもあり、その言葉には重みがある。四月、大杉理事長は企画室職員にコメを精力的に勉強するように指示した」
 「市場原理を導入しないかぎり、食管制度はにっちもさっちもいかなくなっている。『コメの流通業者間で自由に売買する市場が生まれる日は遠くない』とのささやきがあちこちで聞かれる。そうなると、年産四兆円にものぼる超大型商品だけに、価格の騰落のリスク(危険)をつなぐ場所が当然必要となる」
 「現代はマーケットの時代。コメの相場もお役所ではなく自由な取引の場である取引所が決めるという時代が近づいているのではないか」
 さらに別の日の日経には興味深いアンケート結果が出ていた。これは前掲記事の3カ月ほど前、同年3月14日付で「商品先物市場に関するアンケート調査」として、証券会社や銀行などを対象に企業が新しい資産運用の場として希望する新規上場商品(3つまで重複回答可)を聞いている。
 結果「オプション」がトップで40%超、次いで「米などの農産物」が約40%で2位にランクインした。なお3位以下は「原油」、「物価などの指数」、「銅・アルミ・すずなどの非鉄金属」、「コーヒー・ココア」、「綿花・羊毛」、「ナフサ・石油製品」、「ブロイラー・卵などの畜産物」、「エビなどの水産物」、「合板」、「木材(製材品含む)」という商品が並んでいる。
 37年前の報道ではあるが、食管制度の限界、つまり自由化への転換期に先物市場の必要性が叫ばれていたことは注目すべき事実であり、コメが魅力的な投資商品として金融関係者に認識されていたことも重視すべき事項といえるだろう。
 食管制度はヤミ米やウルグアイラウンドにおけるコメの部分開放に伴い、実態との乖離が限界に達したため、95年に廃止となった。代わりに制定されたのが食糧法で、大幅な規制緩和に舵を切った。具体的にはコメ流通において政府の関与を備蓄米やMA米に限定するなど部分管理に変え、生産者は様々な出荷先を洗濯することが可能になった。つまり、日本に再びコメ先物市場の存在意義が台頭したわけだが、それから30年が経とうとしている。

<了>

(Futures Tribune 2024年2月20日発行・第3270号掲載)
画像:日経記事(昭和62年6月15日)

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