コメ行政の歴史~戦時統制から食管制度の限界【上】

2024-02-28
日経記事(昭和62年6月15日)

政府がコメを完全掌握、流通・値段すべてお上の意向が反映

 1942年(昭和17)、戦時経済統制の一環で食糧管理法(食管制度)が制定された。これによりすべてのコメは原則政府の管理下に置かれ、農家は生産したコメを全量政府に供出する制度が敷かれた。
 戦後もしばらくは食料事情が改善せず、46年(同21)に皇居前で行われた食糧メーデーのスローガンは「米飯獲得」であった。この状況下で食管制度によるコメの強制出荷と配給制度も継続していった。だが大多数の国民は配給米だけで生活ができず、農家に直接買い出しに行ったり、水面下で流通する高価なコメを購入せざるを得なかった。これら政府を通さないコメは「ヤミ米」と呼ばれ、食管制度に違反するとして政府取り締まりの対象となった。
 食管制度下のコメ流通は、69年(同44)の自主流通米制度導入を基点に分けられる。自主流通米導入以前、農家の生産米は1次集荷業者(ほぼ農協)に集められ、そこから都道府県単位で設置されている経済連など2次集荷業者へ渡り取りまとめられる。その後全国集荷団体である全農などを通じて政府に売り渡されるという流れだった。コメはそこから卸売業者を経由し小売業者である米穀店の店頭に渡り、最終的に消費者に届けられるという構図である。一連の流れで重要なのは、各段階でのコメの値段はすべて政府が決めていたという事実である。
 事態が変わりだしたのは50年代後半で、コメの生産量が増え食料事業が改善されたことで、消費者はコメに対し量より質を求めるようになった。加えて生産量が増加すると、全量を買い上げる政府の財政負担も大きくなった。


自主流通米制度でブランド米誕生、コメ政策も緩和方向に

 そこで導入されたのが自主流通米で、69年(同44)から政府の買い上げルート以外に、政府の許可を受けた卸売業者が集荷業者から直接コメを購入する流通ルートが認められた。こうしたコメは政府を通さないので自主流通米と呼ばれ、いわゆるブランド米誕生のきっかけとなった。
 というのも、当時のコメは複数産地かつ様々な品種を混ぜ合わせたブレンド米が一般的で、品質の安定が最重視された。そのため一定の食味を出すブレンドのバランスが米穀店の職人芸だったが、自主流通米の登場で消費者が特定産地、特定品種のコメを指定できるようになった。こうした流れを受けて新潟コシヒカリやササニシキなどがブランド米として格上げされ、一般米との差別化に繋がった。
 政府のコメ政策が緩和の方向に向かい始めたのは71年(同46)である。コメの生産量が増えたことに加え、食生活の多様化でコメが余り始め、同年からコメの作付けを制限する生産調整、つまり減反政策が始まった。翌72年(同47)には、それまで政府が決めていたコメの店頭販売価格が自由化された。
 食管制度では生産者が消費者に直接コメを売ることが禁止されていたが、90年代になると自主流通米に加えヤミ米の割合が増加し、政府を通じて流通するコメの割合は全体の約30%に下がっていた。

(Futures Tribune 2024年2月20日発行・第3270号掲載)
画像:日経記事(昭和62年6月15日)

⇒【NEXT】コメ行政の歴史~戦時統制から食管制度の限界【下】

FUTURES COLUMNへ戻る