食料の安全保障、コメの需給はどう変わったのか【3】

コメ配給制度の復活、食糧庁の統制下に

 だが肝心の政府米在庫が1992年から激減していた。食管制度の末期はコメ農家も、順法精神を発揮しわざわざ実入りの少ない政府米として販売するより、ヤミ米として売りさばいた方が儲かったからである。この頃になるとコメ農家のヤミ米への後ろめたさはほぼ消失していたと考えられ、食管制度はほとんど崩壊していたとみていいだろう。
 結果として政府米在庫は92年が26万t、大凶作の93年は20万tに過ぎず、220万tの不足に対しその10分の1すら用意できなかった。この段階で食糧庁は、コメの緊急輸入を検討し始める。
 食糧庁がまとめた1994年米穀年度(93年11月~94年10月)のコメ供給計画によれば、前年の93年産収穫量が約783万t、うち食糧庁が政府管理米(食管制度の政府米及び自主流通米)としての集荷分が約400万tで前年比200万tマイナスの大幅減、残り分の383万tはヤミ米・縁故米・農家保有米(自給用)という内訳である。
 一方でコメの供給量については主食用が540~560万tと推計していた。内訳は政府米が200~220万t、自主流通米が330~350万tとなる。前述のとおり政府米在庫20万tに、94年産の早稲を仮に同量の20万t補充したとしても、160~180万tの不足となるが、この分をすべて輸入米で充当しようという算段である。
 大凶作の93年は、自主流通米市場においても大きな動きがあった。同年産の自主流通米は冷害と長雨の影響で品不足が決定的な状況で、8月の入札開始以降、全銘柄が軒並みストップ高となった。いずれも値幅制限の上限値に張り付いたままという膠着状態で、食糧庁は入札の意味がないと判断し市場の価格決定権を取り上げる形で入札を中止してしまった。その上で集荷したコメを都道府県ごとに、過去の実績(消費量)に応じた分量だけ割り当てるという施策を講じた。
 これは、事実上コメの配給制度の復活に等しく、価格も量も再度食糧庁の統制下に入ったことを意味していた。


コメ農家の販売網が拡大、ヤミ米も合法に

 食管制度から食糧法への移行については、規制緩和という見方をすると理解しやすい。具体的には建前上ではあったが生産米の全量を政府の管理下に置いてきた食管制度から、食糧法では政府の干渉を非常時に備えた備蓄米もしくは海外から輸入したミニマムアクセス米(MA米)に限定したわけである。つまりコメは政府の全量管理から部分管理に変わり、事実上ヤミ米が合法化されたのである。
 原則JA(農協)への出荷が決められていたコメ農家の販売ルートも、卸業者や小売業者への販売や消費者への直売が可能となった。
 生産調整についても選択性が採られたが、現場ではまだ強い強制力が残っている模様だ。
 流通分野も様変わりし、食管制度では許可制だったコメの卸業、販売業も、食糧法では登録制となり、一定の要件を満たせば誰でもコメの販売が可能となった。
 一方、農家だけではなくJAや経済連も食糧法によりそれぞれコメの販売が可能となった。もともとJAは農家からコメを集荷する1次集荷業者、そのJAからコメを集めていた2次集荷業者の経済連も独自の販売経路を持つことが可能になったことで、出荷者側の競争は激化した。
 これを卸や小売業者からみると、仕入れルートが多様化され、大手量販店や外食産業の影響力が高まるとともに、コメの価格決定主導権は卸や小売業者に移っていった。
 このため米価は下落基調が進み、小規模農家の経営は徐々に苦しくなり現在に至っている。食管制度から食糧法への変化は、つまるところ公平安定の流通から自由競争への変貌であったと結論付けられるだろう。

(Futures Tribune 2021年8月26日発行・第3163号掲載)

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自主流通米の入札制度に潜む大きな問題点

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