幻の救世主・商品ファンド物語【2】
1988年バブル経済日本に上陸も大蔵省が問題視

2023-06-15

 日本に商品ファンドが上陸したのは1988年、日本経済がバブルにひた走っていた頃である。アメリカのブラックマンデー当時に高収益を上げた金融商品ということで一躍脚光を浴びた商品ファンドは、工学的手法から発展を遂げその理論精度を高めた。日本上陸後、三菱商事、オリックスがゼロクーポン債を組み込んだ商品ファンドを発売し、丸紅、日商岩井、住友リースなどによる同スキームのファンドが続いた。例えばオリックスのファンド「オリックス・フューチャーズ・ファンド1号」および「同2号」は、2商品合計で200億円ほど集めた。だが、ここで大蔵省が待ったをかける。


 1980年代中盤までの商品ファンドは、ハイリターンの期待値は高いものの運用技術が追いつかず、極めて安定性に欠ける運用商品であった。そうした中で1985年、シェアソン・リーマン・ハットン社(後のリーマン・ブラザーズ)が元本確保型の商品ファンド(ギャランティ型商品ファンド)を開発し、複数多銘柄に分散投資しつつ先物取引においても安定した収益が期待できる投資手法を実践した。
 これらの商品ファンドが1987年10月のブラックマンデーで、軒並み元本割れし大ダメージを被った証券投資信託に対し高収益を上げたことで、その後急速に商品ファンドに関する研究が進むこととなった。その際研究開発をリードしたのは米航空宇宙局(NASA)の科学者で、米国の金融経済学者ハリー・マコ―ビッツ博士(1990年ノーベル経済学賞)によって構築された投資理論を応用し、より精密性を向上させた。こうして数千銘柄以上の資産運用モデルを1分いないで分析可能とするなど、工学的なアプローチで投資技術が底上げされたことで、先物市場は資産運用の場として市民権を得た形となった。
 アメリカで生まれ発展した商品ファンドは、日本にも上陸した。1988年、ブラックマンデーの翌年である。同年、三菱商事が「オールスター」「ポールスター」という2本のファンドを組成した。これは元本確保型で、ゼロクーポン債と商品先物取引の2種で運用するものだった。続いてオリックスが「オリックス・フューチャーズ・ファンド1号」を発売した。これら黎明期の商品ファンドに対し、大蔵省が噛み付いてきた。

(Futures Tribune 2023年6月13日発行・第3221号掲載)

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ゼロクーポン債不使用のファンド設計、通産省主体で

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