幻の救世主・商品ファンド物語【1】
ブラックマンデーで一躍脚光、金融商品の主役に

2023-06-09

 国内商品先物市場が低空飛行の状態となってから15年ほどが経過する。商品先物を復活させるにはどうしたらいいか、取材で何度も聞いた質問ではあるが、業界をよく知る識者数名が指摘したのは「商品ファンドさえうまくいっていたら変わっていた」というものだった。商品ファンドは「不特定多数の投資家から集めた資金を、資産運用の専門家が主に商品先物市場を利用して運用する投資商品」と定義できる。1990年代から2000年代にかけ業界に携わってきた関係者にとって、商品ファンドは郷愁的な響きを帯びる。なぜ商品ファンドは伸びなかったのか、歴史とともに検証してみたい。


 商品ファンドは1949年(昭和24)、米国で誕生した。初ファンドの名称は「フューチャーズ・インク(Futures Inc.)」だった。日本では同年商品取引所法が成立し、ようやく戦後初の商品取引所となる大阪化学繊維取引所が設立登記(10月17日)された頃である。同ファンドには約100万ドルの投機資金が集まった。理由は設定者にあった。
 設定者のリチャード・ドンシャン(Richard Donchian)はこの当時、商品先物取引を中心に大きな投資成果を上げており、「自分の資金も運用してほしい」と依頼する声が絶えなかったからである。
 まだ分散投資という概念すらなく、商品ファンドの関連法も当然存在しなかった。ドンシャンは商品ファンドの受託運用業者(CPO=Commodity Pool Operator)というより、むしろ投資顧問業者(CTA=Commodity Trading Advisor)の立場であったといえるだろう。
 ところがこの当時、先物市場の規模はまだ発展途上の段階で、機関投資家が参加意欲を示さなかったこともあり、同ファンドは大きな発展を遂げることもなく商品ファンドは1960年には1回姿を消している。だがドンシャンのファンド設定および運用手法は後世に大きな影響を及ぼした。
 5年後の1965年、CTAとなったドン・アンド・ハーギット(Dunn & Hargitt)が初の組織的商品ファンドを組成した。これは1口2,000ドル、CTAの手数料は年175ドルという設定だった。だがこのファンドは女性や少数民族の口座開設を拒否したともいわれており、売れ行きも伸びなかったとされる。
 その後もスポット的に商品ファンドは組成されるものの、金融商品としてメジャーな存在になるまでにはまだ長い年月を必要とした。ただし1970年代半ば以降、米国では商品ファンドに対し関連法制の整備が進み始める。
 1974年、米国における商品取引所法(CEA=Commodity Exchange Act)が大幅改正され、初めてCPOやCTAに関連する規定が盛り込まれた。同時に米商品先物取引委員会(CFTC=Commodity Futures Trading Commission)が発足した。2年後の1976年にはCPOおよびCTAが登録制となり、規制整備がさらに進んだ。
 ルールが明確化したことで米国ではその後、商品ファ ンドの設定が増加傾向をみせ る。だが金融商品として市民 権を得るのは 1980年代半ばで、さらにブラックマンデー(1987年10月19日)後、爆発的な普及をみせ金融商品の主役に躍り出た。ブラックマンデーはニューヨークで株式が大暴落した金融史に残る一件で、ダウ平均は508ドル、22.6%値下りという史上最大の暴落幅を示し株式投資家は大ダメージを負ったが、商品ファンドだけは全体的に高収益を上げたからである。商品価格が株式ほど値下りしなかった背景はあるが、売りからも収益を上げられるという商品先物の特性が活かされた形となった。これ以降、機関投資家も積極的に商品ファンドを利用し始めた。

(Futures Tribune 2023年6月6日発行・第3219号掲載)

⇒【NEXT】幻の救世主・商品ファンド物語【2】
1988年バブル経済日本に上陸も大蔵省が問題視

FUTURES COLUMNへ戻る