商品先物業界団体変遷史【上】
戦後行政の始まりと全仲連発足
2023-11-15現在商品先物業界3団体が入るビル(東京都中央区日本橋)
商品取引所の復興前夜と暗黒期への突入
戦後の商品先物行政は、復興を見せ始めた繊維産業を中心に、自由経済を推進する目的から取引所の設置気運が高まったことで、1950年(昭和25)に「商品取引所法」が制定されたところから始まった。2年後に一部改正が施され、ここで商品外務員制度が導入される。これは、当初の商取法が個人投資家への勧誘について「商品仲買人(現・商品先物取引業者)の経営者以外不可」としていたためで、事実上個人が締め出されたことで市場がまったく拡大しなかったという背景がある。
その直後、51年にスターリン・ショックと呼ばれる株式の大暴落により、倒産の憂き目にあった中小規模の証券会社から多数の証券営業マンが商品先物市場に流入した。そこで証券時代の手法を用いて個人の勧誘を始め、同時に当時台頭してきたばかりのマーケティング理論を組み合わせることで、いわゆる「組織営業」のスタイルが構成されていった。これにより所々で過度な勧誘行為によるトラブルが多発した。
さらにこの時期から日本も高度成長期に入り大半の産業が右肩上がりの状態であったことから、つまりリスクも少なくヘッジ市場としての先物ニーズもほとんどなかった。こうして商品先物市場は個人投資家からも産業界からも「無用の長物」として蔑視され、主務省も厄介者として不拡大政策を掲げた。商品先物市場の暗黒期であった。
初の業界団体「全仲連」発足、業績積み上げ存在感増す
こうした状況下で64年から、主務省(今の農水省、経産省)が仲買人に対して規制を強めてきたことは仕方がないが、ただ議論が主務省と全国商品取引所連合会(全国の商品取引所に対する情報発信等取りまとめの団体)だけで進められていったことに、意見する場も与えられなかった仲買人は不満が募っていく。確かに問題のある仲買人がトラブルを招いていたが、良識に沿って節度ある営業をしていた会社も少なくはなかった。
これらの動きに対抗する形で65年9月、仲買人の団結により「全国商品取引所仲買人協会連合会」(全仲連)が組織された。とはいえ、結成当初は主務省や全商連に取り入ってもまったく相手にされなかった(当時の商品取引所は主務省の出先機関のようなポジションで、仲買人に対し同業意識の欠片もなかった)。主務省の研究会でも全仲連が意見できる雰囲気では到底なかった。
このように冷遇されながらも71年1月、改正商取法施行により、すべての仲買人262社が商品取引員として認可を受けた(ただし29社は条件付き)。これに合わせ全仲連も「全国商品取引員協会連合会」(全協連)と改称した。なおこの時期、全商連と全協連の一本化が検討されたこともあったが、時期尚早として流れている。
とにかくこれが契機となったのか、全協連はその後次々と大仕事を成し遂げ、主務省も無視できない存在になる。
(Futures Tribune 2017年6月発行・第2789号~2792号掲載記事に加筆修正)
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