中国経済の歴史と先物市場の今【上】

2023-11-02
天安門広場

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 農政調査委員会は23日、第6回農産物市場問題研究会を開催し「米の市場とくに先物市場の必要性と大連の先物市場について」と題し中国や農業を主要テーマとするジャーナリストの山口亮子氏が中国における先物市場の現状などを解説した。また山口氏に続き国産米現場からの提言として、新潟の生産者組合から木津みずほ生産組合代表理事の坪谷利之氏、元米穀新聞記者のジャーナリスト熊野孝文氏が現場の問題点を指摘した。後者の記事は別稿に譲り、今回の特集は山口氏の講演内容を主軸に中国先物市場の現状に焦点を当てるが、まずは導入部として中国金融経済の歴史を振り返る。


中国の金融システム構築と制度改革

 1978年12月に行われた中国共産党第11期中央委員会第3 回全体会議が、中国における経済改革の転換点となった。それまでの計画経済に基づく政策を改め、国内経済改革と対外開放を打ち出し、農業・工業・国防・科学技術の4分野で近代化を目指すことが決まったのである。その際中国人民銀行を中心に国家財政とスライドして機能していた金融システムを、市場経済に適応した動きをするよう制度改革が順次加えられた。
 まずは翌79年に中国銀行、中国農業銀行、中国建設銀行が再建され、83年には中国人民銀行でそれまで担当してきた商業銀行と中央銀行の業務が分断され、新たに中国工商銀行が設立された。これら4 行は国有専業銀行という位置付けで、このうち中国銀行が外国為替業務や貿易金融を担当した。
 このような制度改革により80年代の中国では都市部の家庭を中心に銀行預金が順調に伸び、その後のマネーサプライも途上国としては高水準の状態にあった。
 だがこうして集まった資金に市場のメカニズムは機能せず、効率的な資金の回転が生じたわけではなかった。理由は中国の金利が非自由化であったためである。80年代の中国は低金利が持続していたことに加え、預金金利と貸出金利の利鞘もほとんどなく、金融機関同士の競争が生じなかった。
 このような状況で銀行に資金が集まっても、その大半が国有専業銀行4 行に集中することで、多様な金融機関による活発な取引や競争原理が働かなかった。
 中国政府はコール市場の形成も画策したが、手形決済制度の整備が遅れ、特に遠隔地間の取引決済における手続きの煩雑さが影響し信用性が向上しなかった。また当時の企業間決済は手形よりも現金決済が広く好まれており、コール市場自体も規制や法律の整備が十分ではなかったため、全国レベルの市場は96 年の誕生まで待たなければならなかった。こうしたインターバンク市場の整備不足は、地域間の資金移動を大きく制限したとも指摘されている。
 市場メカニズムが十分に機能していない状況下では金融システムが地域内で完結する傾向が高まる。株式発行などの直接金融は十分な発達を示さず、企業の資金調達は銀行からの借り入れに依存する形をとっていた。
 特に国有銀行の支店では本店以上に融資決定の影響を持ち、さまざまな地方政府は地元経済の振興のみを目的に地元金融機関に働きかけ、融資を引き出しては効率性を度外視した過剰な設備投資を繰り返した。
 こうした動きは85年、財政資金が主体であった企業の資金調達を、銀行借入れに切り替える政策が発令されたことも拍車をかけた。
 当初の政策目的は、無償の財源である補助金を有償の貸付に転換することで企業に資本コストを意識した経営を促進させることにあった。
 だが結果的に設立時点で負債100%、すなわち自己資金ゼロで企業が設立されるという経営リスクの高いケースが各地で見られるようになり、これが後に深刻な不良債権問題へと発展していくことになった。
 短期金融市場の形成が遅れたことで、中国では政府によるマクロコントロールにも大きな影響を及ぼした。79 年から84 年までは中国人民銀行が預金の受入れと貸付けを独占するという「モノバンク・システム」の枠組みが残っていた。中央の人民銀行は預金受入れと貸付け計画を策定し、その実務と管理を各地方の人民銀行支店に任せていた。
 ここでは預金差額は必ず達成し、貸出差額は必ず計画以内に抑えるという目標を地方支店に負わせる形式をとった。仮に預金目標が未達成の場合は現金が発行されるルールになっており、これが金融緩和的な状況に繋がった。


国有銀行の独立性強化が天安門事件の引き金に

 だがこれら直接的な信用管理の限界が徐々に顕在化し、中国政府は84年以降、間接管理における信用管理の導入に至った。国有4 行の専業銀行は各々が資金を管理し、独立採算制を採った上で中央銀行と専業銀行との間の資金移動を「同一法人内における分配」という位置付けから「異なる法人間での貸付関係」という立場に転化を図った。
 人民銀行は預金準備金の調整や金利調節などの手段を通じマネーサプライのコントロールを画策したが、何しろ市場システムが不完全だったために十分な効果が得られなかった。
 中国政府は間接管理に加え、貸付枠の調整による直接的な管理を並存させることで対応し、専業銀行の貸付枠を預金とリンクさせて、流動資金に関しては手元の預金に応じて貸付枠の決定権を与えるという規制緩和は、預金額の拡大に応じて貸付枠を増やすことで預金の獲得を奨励するという目標にたった政策だったが、結果的にこれがインフレを促し、引いては89年の天安門事件を引き起こした要因のひとつになったのである。
 中国政府は民主化運動を武力で抑え終止符を打ったが、天安門事件は改革開放政策への大きな転機となった。中国政府の市民に対する武力弾圧は、欧米や日本でも強い反感を呼び、次々に経済制裁が行われた。北京全土に出ていた戒厳令が解除されたのは1990年1月で、同時に経済制裁も解かれたが、改革開放政策への舵取りには疑念も多く海外からの投資は冷え込んだ。
 さらにこの時期、共産党政権内では改革開放に反対する勢力も活性化し、路線変更を画策する動きも出始めていた。政権指導部は改革開放路線を具体的に顕示する必要に迫られ、92年1月から2月にかけて鄧小平が湖北省の武漢、広東省の経済特別区であった深セン、さらに上海などを訪れ改革開放の必要性を訴え続けた。
 この結果中国の対外開放は急速に進展し、外資の受け入れが本格化していった。財政金融改革も進み、金融のマクロコントロール強化を中心に1994 年1 月1 日の外国為替制度において、それまでの公定レートと調整市場レートの二重為替レートが1ドル=8.7 元の水準の統一レートに一本化されたことはその後に大きな影響を及ぼした。


規制よりもまずは上場、動きながら考える中国の国民性

 ここから先は、山口氏の講演内容を掲載する(以下)。

 基本的に日本と中国のコメを巡る状況は農家の規模の小ささや価格の部分でも共通点が多いので、大連の先物市場が日本にとって参考になる部分がたくさんある。
 中国の先物の特徴として「保険と組み合わせる」ことがあり、より多くの参加者を先物市場に呼び込んでいる。
 日本でコメ先物が廃止されるという状況にあった時、大連では1カ月何百万tという取引をやっており、今でも順調に取引が続いている。
 直近の9月では取引量が269万tを超えるほどになっている。日本ではコメの年間需要量が700万tを下回っているので、規模の大きさが理解できるだろう。年初来の取引量は2,940万tで、日本の総生産量の4倍ほどになっている。取扱金額は1,250億元と、円に換算して2兆円を超える。
 1993年、コメは上海粮油商品交易所(現・上海先物取引所)で先物取引として上場をして結果的に大失敗した。中国では様々な作物が統制の対象商品で、未だにこうした制度は健在である。93年は中国国内で改革開放が始まっており、社会主義からの決別を共産党が目指していた時期である。市場に委ねることで取引を活発化したり農民の所得をあげることはできないかと模索された時期でもあった。実験的に各地で先物取引所が設立され上場商品が拡充中で、コメについても上海で上場された。中国では「走りながら考える」ということがよくあり、先に規制を作るよりもある程度リスクがあってもとにかくやってみて、失敗したら修正を加えたり廃止するというやり方の方が中国らしいといえる。この時も制限が甘かったようで、価格の高騰が何度か続き最終的に危険だと判断され廃止に至った。
 コメ以外にも先物市場にはいろいろと上場されていたが、やはりコメは主食であるため個人投資家の間では上海のコメ廃止は記憶に残る事件となったようだ。
 次にコメは2009年から2014年にかけて、河南省の鄭州商品取引所でインディカ米とジャポニカ米の3商品が上場された。
 まずはインディカ米の中でも早稲に相当する商品で、品質は落ちるが生育が早く取扱量も多い。これに始まり次がジャポニカ米で、3つ目が再度インディカ米だが生育が遅い代わりに品質が高いという晩稲のコメだった。大連商品取引所が上場するジャポニカ米との違いは商品設計で、例えば大連が1枚10tであるのに対し、鄭州は1枚20t、また限月でも両商品の違いがみられる。

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(Futures Tribune 2023年10月24日発行・第3247号掲載)
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