世界経済のバブル事件史~チューリップバブルからリーマンショックまで【上】
2024-06-18日本のバブル崩壊から30年以上経つが、バブルそのものは経済活動において周期的に繰り返されるものである。要は余剰資金が一極集中すればそれがバブルを引き起こすのであるが、世界初のバブルとされているのが中世のオランダで発生した「チューリップバブル」である。有名なバブルはこの他に「南海泡沫事件(イギリス)」、「世界恐慌」(アメリカ発)、「株式・不動産バブル(日本)」、「ITバブル(アメリカ)」、」「リーマンショック(アメリカ)」などがある。バブルの熱狂は人間の理性を簡単に崩壊させる。これは頭の良し悪しは関係なく、例えば南海バブルでは、当時造幣局の総監だった科学者のニュートンが2万ポンドも大損し、「天体の運行は計算できるが、人間の狂気は計算できない」との言葉を残している。一方、音楽家のヘンデルはこの時売り抜けて大儲けしたとも言われている。今回は、世界経済史に残るバブルについて発生から崩壊まで特集する。
【オランダ・チューリップバブル(1637)】
1549年、インカ帝国が放置していた世界最大規模のポトシ銀山(ボリビア)がスペイン人に再発見された。スペイン人は新大陸の銀を効率的に運ぶため、メキシコに鋳造所を新設し大量のレアル銀貨を製造した。
大航海時代まで、ヨーロッパで流通していた銀は南ドイツ産がほとんどだったが、年間産出量は3万㌔㌘だった。だが16世紀後半、アメリカ大陸の植民地からスペインに流入した銀は年20万㌔㌘を超えた。しかも旧インカ帝国の強制労働制度を利用し採掘したため、安価で輸入できた。
このためヨーロッパで銀が大量に出回り、長期インフレで貨幣価値が下落したため、資産価値を維持するための投資が盛んになった。その矛先がチューリップの球根に向けられ、これが世界初のバブルを引き起こした。
当時、ヨーロッパの庭園では地中海東部に自生するチューリップが「宮廷の花」として特別に愛好されており、オランダ商人は競ってイスタンブールへ赴き、チューリップの球根を高値で買い漁った。これが1634年から1637年にかけての球根バブルに繋がる。この時期、球根の値段が面白いように上がり、転売するだけで簡単に利益が得られた。オプション取引も登場し、庶民が一攫千金を夢見て家財を担保に投機資金を借りる動きも加熱したが、これは無理もなかった。例えばアブラムシに寄生するウィルスで変異した斑入りの品種は「ブロークンチューリップ」と呼ばれ、3,000ギルダーという値段がついた。これは裕福な商人の年収に相当する。
こうした熱狂の中1637年2月、それまで急騰していたチューリップが突然値を下げ始めた。原因は一部の投資家が利益確定の売りに走ったためで、価格下落により大勢の人が疑心暗鬼となって、一斉に売りが加速した。これで球根価格は大暴落し、短期間で多くの破産者を生み出した。
【イギリス・南海泡沫事件(1720)】
中世のイギリスは、産業の少ない貧国だった。当時ヨーロッパの主産業であった毛織物業の原料である羊毛の主要産地こそイギリスだったが、加工はフランドル地方(ベルギー)が代表的だった。
だがイギリスのテューダー朝(1485~1603)は、フランドル地方から織布職人を招くなどして技術を取り入れ、16世紀には毛織物の高品質化に成功し、輸出総額の90%ほどを占めるに至った。
一方、海上では大航海時代以降、イギリスの王や貴族が船乗りに特許状(敵国の船を襲う権利)を与え、大西洋を往来するスペインの銀船を襲わせた。その後スペインも兵力で応戦したが「アルマダ海戦(1588)」でイギリスが勝利し、海上覇権を手にした。だがイギリスの懐事情も芳しいものではなく、名誉革命後の第二次英仏百年戦争では軍費の調達に苦しみ、ユダヤ商人の発案で国債の発行に踏み切っている。ただ国債の引き受け手を探すのが一苦労で、イギリス政府は1711年に設立された半官半民の「南海会社」に国債購入と引き換えに大量の株式発行を認可した。
もともと南海会社はスペインの支配下にある南アメリカで植民地経営を請け負っていたが、経営実態はほとんどなかった。それでも自社株をなるべく高く売却すれば国債をたくさん引き受けられるというある種の口実を作り、株価釣り上げに走った。
南海会社はイギリスがスペイン植民地での奴隷貿易に係る独占権を得たと宣伝し、民衆の間に高利潤の期待をふくらませて株価を半年で10倍にした。だが実質はスペインの貿易独占状態が続いており、奴隷貿易の事業は一向に軌道に乗らず、熱狂は急速に冷め株価は2カ月で5分の1に大暴落し、大勢の投資家が大損した。実態のない話で株価を釣り上げるという詐欺行為だが、この一件が「バブル」の語源となった。
【日本・株式、不動産バブル(1989)】
1985年9月22日、NYセントラルパークに隣接するプラザホテルで先進五カ国(米・英・仏・西独・日)蔵相・中央銀行総裁会議(G5)が秘密裏に行われた。これはアメリカが石油危機後のスタグフレーションにより、大幅減税と軍事費の積み上げで貿易赤字と財政赤字(いわゆる双子の赤字)の膨らみを招き、世界最大の債権国になったことでドル安誘導への共同歩調を求めた会議である。ターゲットは戦後の経済成長が日本と西ドイツで、日本は10~12%のドル安誘導を認め「プラザ合意」が成立した。
これにより機関投資家はドル安進行による損失拡大を恐れ、先物取引で大量のドル売りを行い、結果ドルが急落した。ただ、その後の2年間で円は予想を超え1ドル120円まで2.5倍も急騰してしまい、思わぬドル安進行に対処するため、1987年2月22日フランス大蔵省でG7が開かれた。
そこで1ドル150円付近でドル安進行を抑えることと、日本及びドイツの内需を拡大させる合意が成立した。この会議は会場がルーブル美術館に隣接していたことから「ルーブル合意」と呼ばれている。
一連の動きにより、アメリカはドル安で輸出を増やし、ブラックマンデーの衝撃などもあったが、90年代後半には経済を順調に回復させた。
一方、日本は円高不況に苦しむこととなった。急激な円高で日本の輸出は激減し、台湾、韓国、香港、シンガポールなどアジア諸国へ企業の工場移転が進んだ。この結果、日本以外のアジア経済は大きく飛躍することとなった。
日銀はこの時期、不況対策に金融緩和で対応し、公定歩合は87年2月、戦後最低(当時)となる2.5%まで引き下げられた。だが、今度は金融市場でダブついた資金が不動産市場や株式市場に次々と流れ込んだ。
株価や地価の上昇は、86年から87年にかけて表面化していたが、日銀は金融の引き締めを行わなかった。理由は円高が輸入物価を抑制し、日銀が政策決定の重要な判断基準としていた一般物価水準が比較的安定していたことと、前述したアメリカのブラックマンデー(87年10月19日)に配慮して切り上げのタイミングを失ったためだ。
ただ、この当時の株価上昇は企業業績の改善、地価上昇は大都市圏のオフィス需要増がきっかけで、まずは実体経済を反映していたものといえる。そこに金融緩和政策の継続や大規模な財政政策の発動が重なり、「地価は下落しない」という民間信仰も大いにバブル発生の後押しをした。
85年に1万2,000円ほどだった日経平均株価は、急激に上昇し、89年12月の大納会で3万8,915円という史上最高値を記録した。ここが株式バブルの頂点だった。その後株価は90年年初から下落を始め、92年8月には1万5,000円を割り込んでいる。
もうひとつの主役であった土地は、86年から90年までの間、商業地の地価が毎年10%以上上昇し、中でも87年は21.9%という上昇率を記録している。住宅地の地価上昇は商業地ほどではなく、地方も都市部ほどの上昇はなかったが、大まかにいえば日本の土地価格はバブルによって2倍になった。
地価の下落は株価の下落にやや遅れ、91年から始まっている。これが06年のわずかな上昇に至るまで15年連続で下落を続けた。
株価と地価の下落は日銀の金融緩和政策が引き締めに転換したことと、政府の地価上昇抑制政策だった。
日銀は89年5月に公定歩合引き上げに踏み切り、90年8月までに計5回の利上げで2.5%から6.0%まで上昇させた。株価の上昇が止まるまでには半年かかったが、日銀の意図が市場に伝わると株価上昇に対する期待が失われ、その後一気に下落に転じた。
地価上昇抑制についても複数の政策がとられたが、もっとも強力に作用したのが90年3月、大蔵省が通達した不動産金融に対する総量規制だった。これで金融機関の不動産関連融資残高の伸び率を総融資残高の伸び率以下に抑えることが求められ、不動産投資への資金調達が抑制されたことで地価の下落を招いた。
いずれにしても株価と地価は、政策サイドの想像を超える速度と下げ幅で下落し、バブルの崩壊は巨額のキャピタル・ロスを生み出した。銀行は土地を担保として融資を行う担保主義を基本とし、バブル期における地価の上昇が融資枠の拡大に直結していたため、バブル崩壊による地価の下落で融資残高と担保価値のバランスが崩れ、多額の不良債権を生み出した。このため、不良債権の処理と金融機関経営の健全化は、90年代半ば以降の日本経済における最大の課題となった。
<次号に続く>
(Futures Tribune 2017年11月17日発行・第2822号掲載)
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