コメ先物復活の気運高まる(中)~食管制度とは何だったのか?

2024-03-27

 1942年(昭和17)、戦時経済統制の一環で食糧管理法(食管制度)が制定された。これによりすべてのコメは原則政府の管理下に置かれ、農家は生産したコメを全量政府に供出する制度が敷かれた。戦後もしばらくは食料事情が改善せず、46年(同21)に皇居前で行われた食糧メーデーのスローガンは「米飯獲得」であった。この状況下で食管制度によるコメの強制出荷と配給制度も継続していった。だが大多数の国民は配給米だけで生活ができず、政府を通さない「ヤミ米」を買わざるを得なかった。今回は先物市場の創設を撥ね付けてきた食管制度について振り返ってみたい。


 食管制度(1942~94)が適用されていた時代、コメは生産と流通すべてが政府の管理下に置かれていた。当時、コメ農家は生産したコメについて売り先を事前登録する必要があった。だがどこに売ってもいいわけではなく、国の免許を持つ1次集荷業者に限定されていた。1次集荷業者は登録農家30戸以上、コメの取扱数量50㌧以上などの許可要件を満たさなければならず、事実上農協の独占状態だった。農協以外の1次集荷業者も90年代初頭には全国で1,500ほど存在し、全国主食集荷協同組合連合会(全集連)という団体を形成してはいたが、コメの扱い量は全体の5%程度に過ぎなかった。
 さらにコメ農家が複数の集荷業者と売買契約を交わすことは認められておらず、農協との関係が破綻した場合コメの売り先がなくなるという事態に等しかった。このため農協の方針に表立って逆らうことはできず、結果的に既得権益の保護を助長することになった。
 食管制度当時のコメ流通を詳述すると、まず春先にコメ農家は登録している1次集荷業者(つまり農協)と作付けについてどの銘柄を何俵売り渡すという数量予約をする。ただし売り渡せる量には限度があり、それを超えたコメは超過米として安く買い上げられていたが、食管制度の後期は政府米の集荷が思うようにいかず、超過分についても通常価格での買い上げとなっていた。
 コメは秋に稲刈りを迎え、コメ農家は玄米にして出荷する。前述のとおり出荷先はほぼ地元の農協で、玄米は農協指定の袋に詰めて出荷されるが、コメ袋は無料ではなく1袋80円ほど出して農協から購入した。袋詰めしたコメをパレットに積み上げ自分の納屋に保管し、農協指定の業者がパレットごと農協の倉庫に運ぶという流れである。ちなみに運送手数料は1俵(60kg)当り約70円だった。
 ここで視点を農協側に移すと、集荷(コメ農家にとっては出荷)したコメを倉庫に集めた後、食糧庁の機関である食糧事務所の検査が始まる。コメの品質をもとに1等から3等及び等外までの等級が格付けされる。こうした生育状況のほかにコメの出自、つまり銘柄のランク付けが1類から5類の間で行われ、等級と銘柄でコメの商品価値が決まる。こうして農協に集荷されたコメは検査後3コースに分かれて出荷されていくが、それぞれの流れを追ってみる。

①政府米
政府米は諮問機関である米価審査会の答申など所定の手続きを踏んだ上で値決めされ、政府が買い上げるコメを指す。
 各都道府県の農協に集められた政府米は、それぞれの地域に設置された2次集荷業者の経済連を経由し全国集荷の指定法人である全農に集められる。コメはその全農から政府に売り渡されるのが通常の売買である。その際、政府が買い上げる価格は全国均一であった。
 ただ1次集荷~2次集荷~全農~政府という一連の流れはあくまで伝票上の取引であり、その間コメそのものは倉庫から動くことがない。コメが倉庫を出るのは政府に買い上げられてからで、そのルートも2通りに分かれる。
 まずは倉庫から消費地に運ばれるコースで、政府が事前の計画に基づき消費地にある政府所有または政府指定の倉庫に一旦移される。次に政府と卸売業者など買い手との売買契約が成立するごとに今度は倉庫から卸売業者に運ばれる。他方のコメは農協の倉庫に残され、地元消費に回される。地元の卸売業者などと売買契約が成立してから動き出すものである。
 卸売業者に渡った政府米は精米され「標準価格米」として小売業者や外食産業に売られる。ここでようやく消費者に姿を見せるという構造だ。

②自主流通米
69年(昭44)に導入された自主流通米制度は、食料事情の改善によるコメ余り、全量買い上げという政府の財政負担増という2つの問題解消が目的だった。
 政府米同様、コメ農家は1次集荷業者~2次集荷業者を経て全国集荷団体の指定法人(つまり全農)に販売を委託する。委託を受けた全農は政府を通さず直接卸売業者などに売り渡す。表からは政府を通過するかしないかの違いしか認識できないかもしれないが、実際は政府米と自主流通米の性質は大きく異なる。
 決定的な相違点は値決めで、政府米はコメ農家が出荷した時点で政府の買い上げ価格が明らかになっているのに対し、自主流通米は出荷時点で値段が決まっていない。コメ農家は全農・経済連に販売を委託した形になっていて、売り渡し価格や買い手はその後の交渉次第ということになる。
 とはいえ農協の倉庫に入る段階までは政府米と一緒で、自主流通米は検査を受けた後販売先が決まるまで倉庫で保管される。自主流通米の売買は入札と相対取引という2種類の手法があったが、入札は90年の食管制度末期に導入された制度である。どこの自主流通米も売り手は全農と経済連、買い手は全国の卸売業者という構図で、入札においては国が公益法人「自主流通米価格形成機構」を新設した上で「自主流通米取引所」を東京と大阪に開設した。
 入札は年5回、産地や銘柄別に行われ、価格や買い手が決まっていった。だが自主流通米といっても結局政府の管理下にあるコメには違いなく、入札にも様々な規制が敷かれた。例えば入札量は各銘柄の25%まで、入札価格は過去3年の水準をもとに算定された基準価格から最大上下7%までに制限された。価格の乱高下を防ぐためであった。


自主流通米の入札制度に潜む大きな問題点

 自主流通米の売買は相対取引で行われてきたが、90年(平2)に入札制度が導入された。だが入札には様々な問題点があった。まず自主流通米といっても政府の管理下に置かれたもので、入札の売り手は原則として各都道府県の経済連など二次集荷業者であり、例外的に全農の傘下も認められていた。一方の買い手も正規の免許を持つ全国約200の卸売業者に限られており、結局は農家が自由にコメを売買できる場ではなかった。
 入札の流れは以下のとおりである。売り手(経済連など)が自主流通米取引所を通じて自主流通米価格形成機構に売りたいコメの銘柄や量(予定)を提出し、機構がリストを買い手側に公示する。買い手はそのリストを見て希望の銘柄や量を入札するという仕組みとなっていた。
 だが自主流通米の入札には大きな問題点が2つあった。まずは買い手がリストだけをもとに入札しなければならず、現物米を確認することができない。つまり現物取引の場でありながら、実態は値決めだけの場となっていたことである。2つ目は売り手側の経済連の多くが卸売業者の免許を保有しており、買い手側でもあるという点である。このため、例えば自分が売り手として出したコメについて、買い手側に回り上限ギリギリの高値を付けることもできた。
 これだと需給関係に根差した落札価格ではなく、実態を反映しない歪んだ価格が形成される危険性が高くなる。また、売り手側の経済連が一部の卸売業者にリストを通じて提示した価格や数量を押し付けていたという見方もできた。こうした指摘を受けた機構側は、93年産米の取引以降、売り手側のコメに入った入札については、即座に買い手側の名前と入札価格を公示するようルールを変更した。しかし同年は大凶作となった平成米騒動の年で、結局入札そのものが廃止され、翌年には食管制度も終わりを迎えることになった。

(以下、次回へ)

(Futures Tribune 2024年3月19日発行・第3275号掲載)

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