コメ先物が日本に必要な理由
農産物市場問題研が報告・下
2023-12-08立正大 林康史・経済学部教授
農政調査委員会は11月27日、第7回農産物市場問題研究会を開催し農水事務次官や東京穀物商品取引所の社長などを歴任した渡辺好明・新潟食料農業大学長がコメ先物の必要性を解説し、立正大の林康史・経済学部教授(写真)が「コメ先物市場を考える~何を見据えて、どこに向かうべきなのか」と題した報告で研究会を総括した。両氏ともに現在の日本におけるリスク教育の欠如を憂いており、「リスクに対し何もしないことが最大のリスク」と現代農業の問題点を強調した。本号と次号で林氏の取りまとめを掲載し、渡辺氏の講演は後日掲載する。
さて、市場の役割について、再度、整理したい。
市場システムは社会全体の取引費用を低減させるためにつくられたものである。先物取引の機能/役割としては、①実物取得・換金・在庫調整、②透明かつ公正な価格形成、③価格平準化、④資金運用手段の提供、⑤価格発見・先行価格指標の提供、⑥価格変動リスクのヘッジ(回避)機能 ――などがあげられる。
細川允史氏は、日本の卸売市場制度 の3段階説を述べられた。川中(卸、仲卸)の衰退・弱体化、旧卸売市場法(「優秀な卸売経営者」=「産地から荷を引いて来る能力」)の形骸化、「荷受け」からの脱却が起こっているという。全国的な卸売市場ネットワーク崩壊の可能性を指摘するものだった。私は、かつて、ある研究プロジェクトで、民間企業に食の安全を担保させるといったことを考えていたことを思い出した。彼ら卸や仲卸はレピュテーション・評価の役割を担っており、直接的あるいは間接的に食の安全にも寄与しているのだが、市場を介さずに直取引を行うことで、その機能/役割は脆弱となる。実は、この機能/役割の弱体化は食の安全の部分だけでなく、価格形成の衡平性をも毀損するはずである。形式は別として、実質的には市場を通さない取引が増えるということは、生産者サイド(最初の生産者の次の段階)、消費者サイド(最終消費者の前の段階)を問わず、パワーバランスが崩れて、例えば、JAやスーパーマーケットといった強者が自らの都合のみで価格決定権を行使する可能性は排除しなければならない。
私のヤフーオークションやメルカリ等の取引経験からも市場の無法化は起こっていると思われる(公正な取引・受渡が行われていないこともあり、その際に市場開設業者が適切な対応を行っていない例が多発している )。ネット上の市場開設者への規制は行われるべきである。
農産物等の価格が、特に形式的に市場を通したにすぎないような価格が何を意味するのかは考えなければならないだろう。
①~⑥は以前から私が授業等で用いている項目で、基本は変わらないものの、以上を踏まえると、さらに強調しておくべき機能/役割が明らかとなる。
「食の安全性」「品質の安心性」はあまりに当然なので、機能/役割の6つには入れていなかったが、新たに追記したい。⑦安全・品質の維持である。また、⑤は「価格の信頼性・公平性」として強調することが必要だろう。
ここまで述べた7つの機能/役割は、現物市場・先渡市場・先物市場のすべてが持っているわけではないから、なおのこと、市場の規律性は重んじなければなるまい。
先物の①実物取得・換金・在庫調整、また、⑥価格変動リスクのヘッジ(回避)は、生産者とメーカーのいずれにも大事な利用方法で、逸脱した運用をしなければ、有効な手段だろう。②透明かつ公正な価格形成は、現状を鑑みるに、現物市場も十分な役割を果たしてはいない。③価格平準化は、時間と空間の両方で果たされるはずである。④資金運用手段の提供は市場が整備されれば、さらなる流動性の追加が望まれることになる。
なお、上記に加えて、相対取引か市場(取引所)取引かの違いも考えなければならない。「食の安全性」「品質の安心性」は、脆弱な直接取引では十分には満たされないと考えるべきであろう。
中国のジャポニカ等の先物市場システムの取り組みを検討することは必要だろう。中国は、すでに私たちよりも先を行っているとの認識が必要だろう。
なお、先々の価格の指標は、ジム・ロジャーズの話を思い出す。ジム・ロジャーズ氏は、国際商品市場は世界経済の体温計にたとえていたが、考案したロジャーズ国際商品指数(RICI)を考案したとき、構成銘柄・比率は、世界の商品先物市場に上場されている品目のなかから、グローバル規模での経済的重要性に先物の流動性を加味して作成したと述べていた。将来の価格を情報として提供しており、その情報を利用して意思決定ができる、と。そしてコメを指数に取り入れるとして、どこの何を入れればよいのかも問題だったと述べていた。
かつてシカゴの調査に赴いたとき、巨大なトラクターから降りてきた農家がスクリーンで、次の作柄を考えていたことを思い出す。
将来の価格発見やそうした指標の提供は世界経済や各国経済にとっても非常に重要なものであり、社会的なインフラとして健全に維持・発展させていかなければならない。
例えばインフレ時に消費者としてリスクをヘッジするための市場が機能不全に陥っているならば、社会的な損失は甚大である。市場が健全に機能するには、多様な市場参加者による取引で十分な市場流動性が確保されていることが不可欠の前提となる。
時代の要請により、一部業者の強引な営業行為等は影を潜めた。健全な市場の創設が今こそ必要であろう。
食管制度の負の影響で、コメ農家、JA、また、行政さえも、思考停止に陥っているといえば、いい過ぎだろうか。坪谷利之氏の生産者としての生の声 は、印象的だった。「ラーメン屋で、自分が味噌ラーメンが嫌いだからといって、客が『味噌ラーメンなどメニューから外せ』という権利はあるのだろうか」
価格決定権を保有し続けたいというのは幻想であり、また、それが現状のように組合員の金銭面でのサポートを意味しないのであれば、反=社会的な欲望であるといわれても仕方がないであろう。
先物市場の利用状況の差は、市場システムの社会的な認知の差異も原因ではないかと考える。
生産農家、メーカーのみならず、JAや役所、政治家の間違った思い込みが日本の農産物市場を毀損している。
先物市場は自然発生的な市場を基礎に、より効率的な交換機能を目指すべく育成された社会システムである。そうした認識の下で、農産物市場を立て直すことが必要である。
中間報告の取りまとめには、具体的な商品設計の示唆となるような事柄にも触れたいと考えていたが、そのためにはもっと議論を深めなければならないだろう。ごくごく簡単に記せば、私見ながら、実需筋の買い方・売り方の両方に使い勝手のよい商品 を品揃えすることが必要だろう。
現段階では望むべくもないかもしれないが、オプション の上場も必要なのではないかと考える。
「コメは単なる食品ではない」「米はコメというにとどまらない」といわれることがある 。さらには、単に、コメは日本文化において文化的興味の対象としてのウエイトが高いというにとどまらない可能性もある 。日本文化においては、コメは、アメリカ文化で2語でしか表現されないという以上の意味があるかもしれない。
主食という概念は、アジアにはあるが、実は、欧米にはない。コメは、日本の文化のコアな部分(基盤)なのである。食文化のコアというにとどまらず、文化のコアなのだ。
先物は、日本では、欧米の市場至上主義の権化のように思われている。私自身、なぜ、それが世界で最初に日本で行われたのかは何とはなく、長らく違和感があった。最近、読んだ漆山治氏『コメ作り社会とビジネス社会』に興味深いことが書かれていた。私なりに整理すると、古来からの稲作が、伝統的に、日本文化に標準〔化〕やモジュール 〔化〕をもたらしたのだという。モジュールとは、わかり難い言葉だが、単独〔パーツ〕で機能し、しかし、何かと合体すると機能が期待されるものといったことだろう。
日本建築におけるモジュールの例として、漆山は、畳や障子をあげる。確かに、欧米の〔建築〕文化にはない発想である。もっと理解しやすい例がある。平仮名・片仮名である。言語人類学の知識はないが、おそらく、これらの仮名は、日本文化の標準〔化〕やモジュール〔化〕の典型例だと思われる。
この標準・モジュール、そう全体を要素ごとにバラバラにして統合する――を突き詰めて考えていくと、コメ先物に繋がるのかもしれない。取引・受渡は「場(空間)」でなされ、一連の取引の「時間」は、値決め(交渉)時・受渡時・支払時に分けられる。また、それらの行為は、相対か否かを問わない(“非”相対といってもよいが、要するに同一の相手である必要はない)。こうして、コメの市場での取引そのものが標準〔化〕またモジュール〔化〕できるのではなかろうか。
「貨幣」と「日本の文化のコアな部分(基盤)」という2つの要素が重なりあって、江戸時代の日本で、コメの先物市場が生成されたのではなかろうかと考えた。江戸時代でなくては生まれなかったであろうシステムなのである。
もちろん、思い付きの話ではあるが、存外、これまで市場至上主義とは思い難い日本でのコメの先物は鬼子(不適当な単語ではあろう。あるいは、▲突然変異体▲ミュータント▲と呼ぶのがよいかもしれない)のように感じてきたのは間違いなのではないか。江戸時代には、すでに、単純なモノ作りではなく、ソフトウェア(流れを決するシステム・プログラム)化が行われていたということかもしれない。
また、これは私の為替ディーラーだったという経歴に由来することかもしれないが、現物市場を地球とすると、先物はそれをコンパクトにまとめたジェミニ(双子)のようだと感じていた 。それも誤認だったと思う。
戦時中の統制経済によって中断をよぎなくされたコメ先物市場を復活させるのは、先祖返りであり、正当な伝統の復活であり、単に復古趣味ではないということになる。
ある知人が面白いことをいっていた。「日本でコメという『年に一度の季節的収穫物』が貨幣代わりになっていたことが、世界初の『コメの先物取引』という大発明に繋がったのは確かでしょう。その一方で、コメが『生鮮物』であったために軍備等の資本蓄積に繋がりにくかったこと、また、まともなB/Sに基づいて資本政策を考えることができない単年度会計の国家になってしまったということではないか」と。
今回、市場について、市場vs.国家、市場vs.取引、等々、いろいろな側面から考えた。
ギリシャでも中国でも、古代から経済の要は、コントロールするのは、市場だった。
また、日本の業界、特に流通業では、業種発想がベースにあるという気がする。
新しいコンセプトとして、「コメとその流通」の全体を、流通・小売という枠組みを超えて、横断的に、また、ネットワーク的に発想しなければならないと考える。
(Futures Tribune 2023年11月28日発行・第3255号掲載)
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