ありがとう、多々良義成さん~激動の思い出【5】

さまざまな苦難乗り越え、豊商事を業界屈指の大手業者へ

2023-08-29
若かりし多々良義成さん

設立25周年の記念式典(1982)で挨拶する多々良義成社長
出典:(株)市場経済研究所「フューチャーズ群雄の素顔」

 豊商事(現・豊トラスティ証券)は、1957年(昭和32)1月17日、多々良松郎氏により福岡県福岡市天神町に産声を上げた。当初は社長含めわずか6人という規模であり、事務所は福岡証券取引所の裏にあった粗末な二階建てホテルの八畳間の一室だった。福岡で最寄りの商品取引所は、下関にあった関門商品取引所だったが、戦後の下関自体、中国、満州、朝鮮、台湾といった貿易市場を失い街は廃れていた。当然関門商取も寂れ、半ば死に体の状態であった。豊の創業時は農産物の出来高はゼロに等しく、砂糖も1日50枚程度の出来高しかなかった。一方で東京や大阪の商品先物市場は活況を呈しており、松郎社長も本音では大都市圏への進出を図りたかったに違いないが、当時の事情からみて、あまりに非現実的な夢であった。このため豊は灯の消えかかった関門市場と一蓮托生にならざるを得ず、社長自らがスクーターに乗ってセールスに駆け回るなど獅子奮迅の働きを見せる。また関門商取の近くに下関営業所も開設し、火種となる値付けなど市場作りの抜本部分から改革していったことで、関門市場は徐々に蘇生し始めた。東京進出は1960年3月、創業から3年あまりという短期間で成し遂げている。創業者の甥である多々良義成氏が豊に入社したのは2年後の1962年4月、入社の翌年に同社の売買高は初めて100万枚を突破し業界トップに躍り出た。


32歳で豊商事社長に就任、業界活動にも全力、要職歴任

若かりし多々良義成さん

 入社時の義成氏は、所属が業務部業務課、肩書なしの平社員であった。入社後まもなく横浜生絲取引所の検査が入った。一連の検査過程で主務省の担当官や取引所職員から多くのことを学び、いつの間にか周囲から頼りにされ、業務部の中心的存在へと成長していった。
 またアメリカの先物市場へ視察に出かけ、規模の違いにカルチャーショックを受けている。帰国後すぐに調査部の拡充を手掛け、市況分析など情報提供の充実に注力した。業績はますます伸びた。1963年に100万枚を超えた豊の売買高は、翌64年には200万枚を突破した。倍々ゲームの勢いだった。
 翌65年、証券不況が世の中を襲った。鉄鋼などの基幹産業も生産縮小を余儀なくされた。そんな中、不況などどこ吹く風で右肩上がりの商品先物業者に国税庁がターゲットを定めた。商取業界特別調査官を多数育成し、豊に狙いを定めて乗り込んできた。Gメンによる徹底的な調査はその後3年連続で続き、豊の経営陣にとって神経をすり減らす期間となった。
 こうした状況下で義成氏は1966年6月、専務に就任した。まず、成長第一主義からクリーン経営への転換を図る。すでに創業者の松郎氏は会長となり、二代目社長には豊商事中興の祖ともいわれた川崎正蔵氏が就任していた。義成氏の社長就任は予定されたコースとはいえ、それは思わぬ形で早まった。
 原因は磐梯国際観光ホテルの火災・人災である。1969年2月4日深夜に発生した火災により、死者31人、重軽傷者32人という大惨事が発生した。同ホテルは豊とは別法人であったが、川崎社長が兼務しており、創業者の松郎氏も多額の出資をしていた。出火原因はたいまつショーの出演ダンサーによる小道具の不始末であったため、ホテル側に出火責任はなかったが、この火災事故から2週間後の2月19日、川崎社長は責任を取って辞任した。
 義成氏が豊商事三代目の社長に就任したのは4月8日で、このとき32歳、多難の船出であった。社長就任後、まず手掛けたのは予算制の導入で、営業ももっぱら個人客が対象であったものを法人営業にも目を向けた。
 2年後には法人部も新設したが、これが後々大手商社とのつながりを深める結果を招き、三菱商事や丸紅と業務提携を結ぶ下地となった。
 この頃になると実弟の實夫氏(現・豊トラスティ証券会長)も入社し実力をつけており、兄弟で事業展開を進めた。社長を退いたのは1990年、まだ54歳の若さだったが、周囲が義成氏の隠居を許すはずもなく、以降も要職の襷は途切れなかった。

(完)

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大蔵省vs通産省攻防続く、愛妻喪うも市場創設に邁進

参考:(株)市場経済研究所著「(商品先物市場)フューチャーズ群雄の素顔」,(株)市場経済研究所,1998年
(Futures Tribune 2023年7月11日発行・第3226号掲載)
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