戦後の商品取引所復活劇【上】~繊維中心に高まった気運

2024-02-14
東繊ビル

東繊ビル全景

 25年前の1999年2月、商品先物市場において流動性が低い上場商品の整理・淘汰が始まった。東京工業品取引所の毛糸、中部商品取引所のスフ糸ダル、大阪商品取引所の毛糸・スフ糸ダル・同ブライトなどほぼ繊維商品が主体となった。同月、上記3取引所と繊維業界団体の懇談会が開かれ、取引所から繊維市場の廃止方針が伝えられたが業界側から特段意見は出なかったと本紙第1471号で報じている。戦後、先物市場の旗振り役となった繊維市場だったが、その凋落に歯止めをかけることはできなかった。今回は戦後の商品取引所復活に焦点を当て、繊維を含めた当時の状況を特集する。


 戦後の国内商品先物取引は大阪化学繊維取引所(昭和25年11月)から始まった。続いて福井人絹取引所(同26年2月)、名古屋繊維取引所(同26年2月)、東京繊維商品取引所(同26年2月)がほぼ同時期にスタートし、時を置かずに横浜生絲取引所(同26年5月)、神戸生絲取引所(同26年5月)、豊橋乾繭取引所(同26年5月)がやはり同時期に取引を開始している。農産物の前に、まず繊維、生糸の取引所が主要都市に設立されたのである。
 これには戦後の経済復興が背景にあった。復興に連れて主要物資の統制を撤廃すべきとの意見が上がったが、特に繊維、ゴム、生糸の業界でそれが顕著だった。GHQ(連合軍総司令部)はまず大阪で1949年(同24)8月、「大阪綿花取引所設立に関する提案」を行った。事実上の設立支援であった。繊維業界はGHQの提案に沸き立ち、取引所設立の機運が急速に高まった。当時綿業については原料の綿花を輸入するための外貨がなく、代わって化学繊維が台頭していた。戦後の商品取引所が繊維主体で復活したのもこうした経緯による。
 商品取引所法の施行は1950年(同25)、8月20日であった。第1号の大阪化繊取が11月1日、人絹糸とスフ糸の取引を開始したのをみて、設立申請中であった福井人絹、名古屋繊維、東京繊維なども認可を前提に準備を進め、出資金を募り職員も採用してGHQの認可を待った。だがGHQ側には一向に認可の動きがなく、それどころか商品取引官のランドールが何の用かアメリカに帰国してしまった。申請中の各取引所関係者は一斉に青ざめた。
 ランドールの帰任時期は明らかにされず、年末、来春などの憶測が飛び交い、東京繊維の設立準備会では予算を使い果たし先の見通しが立たなくなった。結果、ランドールは翌年の新年早々に帰任し設立認可手続きを再開したため関係者は胸をなでおろしたが、こうしたすれ違いの原因は業界の勇み足に加え「狭い日本に同じ商品を扱う取引所がいくつも必要なのか」というGHQの懐疑的な視点も影響した。

<次号に続く>

写真出典:東京繊維商品取引所二十五年史.東京繊維商品取引所,1979.
(Futures Tribune 2024年2月6日発行・第3267号掲載)

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