商取風土記~堂島米市場 ③

2023-08-07
堂島浜の幔幕前に並んだ歌舞伎役者(昭和3 年撮影)

写真:堂島浜の幔幕前に並んだ歌舞伎役者(昭和3 年撮影)

 戦争が終わり、占領時代と物資の統制がしばらく続いたが、経済は徐々に安定体制に入り、いわゆる自由主義経済への指向とあいまって統制撤廃が行われだし、まず雑穀がそのワクからはずされた。
 堂島米穀取引所に対する絶ちがたい郷愁を覚える大阪商人としては、米会所時代から代々その伝統を受けついできた由縁の深い米穀商と雑穀商が中心となって取引所再開の気運をもりたてた。
 とりあえず自由経済の先駆的役割を果たしつつある雑穀を上場商品とし、やがて近い将来に統廃される米・麦をふくめた農産物の総合取引所として大成させ、ひいては国民経済の向上にも寄与したいという意図のもとに再開の準備がすすめられた。
 その間、昭和25年8月には商品取引所法が公布された。
 そして27年7月26日、63人の発起人により創立総会がひらかれた。
 初代理事長に岡弥三氏(大阪第一食糧)が選任され、常務理事に篠田正太郎氏(本出商店)、前田卯之松氏(吹田米穀)、その他理事14名、監事2名が選任された。ついで9月15日主務大臣の認可が下り、10月16日に開所した。
 15年、堂島米穀取引所を閉鎖してから実に12年の歳月が流れ、大きな空白時代があったわけだが各業界はもとより広く世間の人々も、経済の正常化と共に取引所再開をのぞんでおり遂にその実現をみたわけである。
 上場商品は大豆、小豆、大手亡豆、馬鈴薯澱粉の4品目である。米の上場はできなかったが雑穀の花形小豆は米と同じく一年草の作物であり天候の適、不適によって人気が左右され、往年の堂島市場ムードに一脉相通ずるものがあった。初立合では御祝儀商い205枚ができた。この大阪と時を同じくして、東京穀取、神戸穀取も再開した。だが開所してみると商いは意外にふるわず、出来高も惨憺たるものだった。
 東京が洗練された行き方をみせて延び、神戸が集散地という地域的特色をいかした商盛をみせていたのをいたずらに指をくわえてみるような状態だった。
 岡理事長が自ら場に立って、売りものがあって買い手がないときは買うというように率先した売買振興をはかったが大勢はかんばしくなかった。1日の小豆の出来高がたった4枚というような日さえあった。
 そして買占めなどによる仕手戦がくりひろげられた。29年6月限~9月限、10月限、30年5月限~9月限など1万円相場をつけ、いわゆる「赤いダイヤ」とさわがれる波乱を呼んだ。取引所は相場高騰に対する特別措置を講じてこの波を乗り切ったが、こうした仕手戦があるごとに売買高は増えていったのだった。

(完)

(Futures Tribune 2024年7月23日発行・第3301号掲載)

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