保護基金創設20年、商品先物委託者債権保護の歴史(上)

2025-07-02

 日本商品委託者保護基金は5月30日の総会で、令和6年度における事業報告および決算について原案どおり承認した。総会には農水・経産両主務省から担当者が出席し、冒頭の挨拶とともに保護基金の必要性などを協調した。社団法人であった商品取引受託債務補償基金協会が2004年4月の商品取引所法改正により、委託者保護会員制法人の現保護基金となったのは2005年で、4月11日の創立総会開催から20年が経過した。委託者保護の面で抜本改正となった法改正ではあるが、営業面については現在でも一部で過剰規制と指摘されている。保護基金設立の背景とともに法改正を振り返る。


委託者債権保護強化、04年抜本法改正の一丁目一番地に

 戦後、商品先物市場が再開したのは1950年(昭和25)で、以後5年間の間に全国20取引所まで広がりをみせた。当時、商品仲買人(現・商品先物取引業者)は許可制ではなく、100万円の資金があれば誰でも設立可能だったため、多くの小規模業者が誕生した。だが資金に行き詰まり倒産する仲買人も増え、さらに新業態の初期にありがちな法的不備によりノミ行為に手を染める仲買人もいたとされている。
 1962年(同37)、小豆先物を扱った梶山季之著「赤いダイヤ」が出版され、2年後には映画化されるほどの人気作となり商品先物が国民に周知される大きな要因となった。ただ映画が封切られた1964年(同39)から翌年にかけ、北海道の小豆が暴騰したことで資金ショートした仲買人の倒産は1965年(同40)だけで10社を超えた。
 こうした状況を憂慮し、受託業務保証金の必要性が叫ばれ、「商品仲買人が預かった顧客の金を分離保管する制度を作ろう」という声が高まった。1967年(同42)7月、改正商品取引所法が成立し受託業務保証金等、委託者保護の強化が盛り込まれた。なおこの時登録制の仲買人制度が廃止され、先物業者は許可制となり商品取引員へと呼称が変更された
 商品先物受託債務補償組合が任意組合の形で発足したのは1972年(同47)2月(補償開始は4月)で、この組合が現在の保護基金につながっている。
 商品取引所法を抜本改正するための産業構造審議会・商品取引所分科会は、2003年(平成15)5月から12月にかけて開催された。検討結果は同年12月に「商品先物市場制度の改革(中間報告)」として取りまとめられたが、具体的方向性の項目で「委託者債権保全制度の拡充」はトップに据えられている。
 こうした背景には社団法人であった補償基金への加入が任意であり、商社系など豊富な財務基盤を有する取引員が未加入だったことに加え、2002年のアイコム破綻、2004年の東京ゼネラル破綻が大きく影響した。両社の弁済案件だけで基金の財源が50億円も目減りしたからである。

(Futures Tribune 2025年6月10日発行・第3364号掲載)

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