「物価の優等生」鶏卵先物上場物語(下)
平成2年の大規模法改正が追い風に
2023-05-19※写真はイメージです
1999年11月鶏卵上場が実現、中部商品取引所で
乾繭市場の衰退で鶏卵上場に存続を賭けた豊橋乾繭取引所は1982年(昭和57)、内部に設置した「鶏卵取引システム検討会」で上場推進への方針を明確化した。
だが中部の一地域だけで動いても実現性が低いと判断し、全国的に鶏卵上場の動きを活性化させるため同年4月30日、日本卵業協会(日卵協)会長に面会し協力を要請した。
日卵協はこれを受け6月に「鶏卵取引所検討委員会」を設置し、2年間検討を重ねた上で報告書をまとめ上げた。この報告書をもとに豊橋乾繭取は、農水省の食肉鶏卵課と懇談会の開催に臨んだ。85年には日卵協が「鶏卵流通改善及び商品取引所に関する講習会」を主催し、鶏卵業者が60人ほど出席した。こうした上場推進への活動は続けられたが、結果的に鶏卵上場には至らなかった。
昭和から平成に移り、今度は豊橋乾繭取に代わり名古屋穀物砂糖取引所が鶏卵上場実現に名乗りを上げた。90年(平成2)12月、「鶏卵価格指数取引等の調査研究開発」を内部の特別委員会に諮った。
なお同年は商品取引所法の大規模な改正により、指数取引や現金決済先物取引制度が導入されている。豊橋乾繭取が上場を企図した当時は現物の殻付き鶏卵が上場対象であったが、名古屋穀物では現金決済先物を考えていた。調査研究対象に「指数」の文字が入っているのは、法改正直後で指数と現金決済先物の正しい認識が進んでいなかったためと思われる。
だが鶏卵上場の前に名古屋穀物は経営が行き詰まり、名古屋繊維取引所とともに95年4月、豊橋乾繭取に吸収される形で解散した。
翌96年10月、豊橋乾繭取は商号を変更し中部商品取引所となり鶏卵上場に向けた活動は続いた。内部に「たまご先物取引市場設計委員会」を設け98年4月に報告書を取りまとめた。
鶏卵先物上場が実現したのは99年11月である。会員46社(うち受託会員26社)でスタートし、手数料割引制度も導入したことで、初日の出来高は2万2,165枚だった。当時の豊島半七理事長は、鶏卵上場にあたり「平成2年の商品取引所法改正により、受渡しを伴わない『現金決済先物取引』が可能となり新たな路が開けた」と商取法改正がキーポイントだったと指摘した。
中部取は2007年1月、大阪商品取引所を吸収し「中部大阪商品取引所」となったものの、すでに国内の商品先物市場は右肩下がりの状況で、流れには抗えず4年後の11年1月末で解散した。
鶏卵先物は10年5月から新甫発会は行われず、およそ10年に及んだ市場において通算の出来高は320万4,283枚(月間平均2万5,841枚)だった。これは同取引所ではガソリン(通算9,688万4,577枚)、灯油(8,377万1,948枚)に次ぐ規模であった。
(連載終わり)
(Futures Tribune 2023年5月16日発行・第3215号掲載)
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