堂島元理事長・岡本氏が立正大学生にコメ先物講義

2025-07-25

<立正大で講義する岡本安明氏(右)と芸人の淀屋常安氏(左)>

 立正大学の林康史教授は2日、元大阪堂島商品取引所理事長の岡本安明氏(岡安商事会長)を講師に招き、学生向けにコメ先物取引の歴史を主題とする講義を行った。同日は岡本氏のほか、芸人の淀屋常安氏も招き2人の掛け合いで現代のコメ先物、また1730年に堂島で始まった堂島米会所に関する解説を交互に進めた。昨年来の価格高騰で注目を集めているコメの話題とあってか、学生も真剣に2人の講義に聞き入っていた。講義は1時間半近く行われ、その後に質疑応答に移行したが、紙幅の関係で両者の講演をダイジェストで掲載する。


岡本

 2011年8月8 日、私が理事長の頃、お米が日本の先物市場に72年ぶりに上場いたしました。1939年、昭和14年に食管法ができコメは統制商品になりましたので取引所取引が行われなくなりました。上場初日はいろんなテレビ局も来ていただいて。インタビューにも応じましたが、初日は大阪(関西商品取引所)は値段がついたのですが(同時に上場した)東京(東京穀物商品取引所)は買い殺到で値段がつかず終わりました。
 江戸時代のコメは純貨幣でした。もちろん大名も年貢でそれから幕府も年貢をお米で取り立てて現金化する、紙幣化することはものすごく大事なことだったわけです。そんな流れで堂島が誕生したわけで経緯はこれからお伝えしていきますが、要は今我々が食べているお米の感覚ではなくてまさに純貨幣でありお米で全部経済が回っていたことを知っていただきたいと思います。
 堂島米会所が始まった1730年頃の日本でのコメは、2,700万石でした。1石は150kgで、その当時、日本人が1年間に食べていたお米の量が大体150kg、それで石と言います。
 生産量は約400万tほどですね、今の半分ぐらいです。一方人口は今の1億2,000万人に対し、江戸中期は3,000万人から3,200万人ですから4分の1の人口で、米は今の半分取れているわけですからいかに一人一人が コメを多く食べていたかわかります。この頃江戸は100万都市でしたが、当時の100万都市は日本とパリとロンドンぐらいでした。大坂は4、50万人で半分ぐらいですね。人口構成は江戸においては100万人の半分が武士でしたが、大坂の武士は4、5,000人と言われています。構成比はわずか1% です。
 ですからいかに江戸は武士の街、大坂は商人の街であったかがわかります。この後300年前にタイムスリップしていただいて、淀屋常安さんに当時の堂島米会所の様子を実況中継をしていただきましょう。


淀屋常安

 堂島米市場という、当時の最大のコメ取引所ですが、当時の様子が浮世絵で残っています。ものすごく賑わっていますが、特に先物取引だからといって難しいことをしているわけではありません。個人で簡単にシンプルな取引をしております。どんな感じかというと、朝8時になりますと拍子木がカンカン鳴りまして、仕切りの人が「寄ります」と声をかけます。取引が始まるお知らせです。
 コメを買いたい人は「とろう」と大きな声を出して 取引相手を探します。逆に売りたい人は「やろう」と言って取引の相手を探します。
 取引場所には大体1,000人ほどの人が集まってきましたが、大きい声を出さないと取引の相手が見つからないものですから、大阪人がうるさいのはここが根源じゃないかと言われるぐらい、本当に大きな声で取引が行われておりました。
 それぞれ取引相手が見つかったら商談に進み、価格が決まったらバチンと手を合わせます。これは俗に「手打ち」と言いまして手を打った後は一切文句なしという決まりです。
 取引時間は火縄銃で計っていました。紐に火をつけてチリチリと燃えていく火縄です。火縄が燃えつきたらここで商いは終わりという合図です。
 ただ取引に熱が入って参加者が帰らない場合、追い出す人がちゃんといたんです。仕切りの人が柄杓で水をパシャッとかける。水をかけて追い出したというわけですが、それほど勢いの騒がしい場所だったということですね。泥棒がこの中に入り込んでしまうと、見つけることはできないと言われたほど人が密集した場所でした。

(Futures Tribune 2025年7月8日発行・第3370号掲載)
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