金と穀物を握った米国、70年代の東西冷戦にみる価格覇権戦争【下】
2024-01-26ソ連が仕掛けた穀物戦争、米ルール変更直前の大量買付け
1970年代は穀物が武器に変貌した時代とされている。米国にとっての穀物は、アラブ諸国にとっての石油に等しい強力な武器になった。当時は異常気象により世界的な穀物の供給不安が生じ、ソ連や中国の共産主義国家にとっては特に頭の痛い問題だった。こうした状況下で、ソ連が米国の穀物相場に大きな影響を与える事件が発生した。
時期は第1次石油ショック前年の1972年で、内容はソ連政府が秘密裏に米国産の穀物を安値で買い占めたため、穀物相場が暴騰したというものだ。
事件は当時、穀物の歴史的な大凶作に陥ったソ連が72年6月、穀物公団総裁のニコライ・ベルオーゾフを先頭に一行がワシントンを極秘訪問したことに始まる。そこでコンチネンタル・グレインなど米国穀物メジャーの幹部と面会し、穀物の輸入交渉に臨んだもので、米国がこの事実をつかんだ時点でソ連は穀物メジャーから小麦750万t、飼料用トウモロコシ450万tの計1,200万tの大量買付けを終えていた。
この量は当時の米国における年間穀物輸出量の3分の1に相当するもので、さらに同年7月に再訪したソ連一行はさらに700万tを追加で買付けている。合計1,900万tの大量買付けにより、ソ連は72年の米国穀物総輸出量の53%と、過半数に及ぶ莫大な量の穀物輸入を実行した。これを金額ベースでみると11億ドルで、小麦価格の推移はソ連の買付け時点で1t当り62ドルだったものが、2年後の74年には同226ドルと3.7倍に跳ね上がっている。
ソ連の穀物大量買付けが実現した背景には、前年(71年)の共産国家に対する規制緩和がある。71年6月11日、ニクソン政権はソ連と中国に対し穀物輸出の許可制と、ケネディ政権時代に導入した船積み規定の撤廃を発表した。これはヘンリー・キッシンジャー特別補佐官(当時)が主導したソ連に対する緊張緩和政策で、米国はソ連との通商を探っていたのである。
だが穀物については駆け引きの重要な切り札とし、72年7月に結んだ米ソ間7億5,000万ドルの借款協定においては、借款は穀物買付けのみに限定し初年度は2億ドルを限度とする条件が付いた。これにより米国はソ連の穀物買付け状況をある程度正確に把握できるスキームを形成したが、制度導入前ギリギリのタイミングでソ連は穀物調達に成功していたのである。米国にとっては完全にメンツをつぶされた形となった。
米国の誤算はソ連の穀物作況を見誤ったことに始まる。ソ連はこの時小麦を当時の経済相互援助会議(COMECON)加盟国に輸出していたこともあり、小麦不足を予見できなかったのである。
法政大の大島清名誉教授は著書「食糧と農業を考える」(1984)で以下の指摘をしている。「農業はソ連経済の“アキレス腱”とか“泣きどころ”といわれる。人口の多い、しかも国民の食事内容の向上しつつあるソ連が――その向上を保障しなければ政治の運営が困難になってきたソ連が――70年代にはいって食糧の輸出国から輸入国に転じたことは、世界の食糧需給にとって重大な意味をもつことになる」。
この時代から半世紀が経過したが、指摘部分のソ連を中国に置き換え現代にスライドさせると違和感なく成立するのが興味深いところである。
対ソ融和策で通商の道、ソ連のアフガン侵攻で一転硬化
ここで視点を変えて、米国の穀物メジャーに焦点を当ててみたい。ソ連による穀物大量買付けの商談を取り仕切った穀物メジャーだが、この一件で注目を集める結果となった。70年代当時は米国系のコンチネンタル・グレイン、カーギル、クック・インダストリーズ、この他オランダ系のブンゲ、フランス系のルイ・ドレフュス、スイス系のアンドレ・ガーナックの6社が、穀物メジャーとして実質的に世界の穀物市場を牛耳っていた。
これら穀物メジャーは現在に至るまでにクックとガーナックが倒産し、カーギルがコンチネンタルグレインを買収するなど勢力図が変わった。現代ではアーチャー・ダニエルズ・ミッドランド、カーギル、ブンゲ、ルイ・ドレフュス、グレンコアの5社を「五大穀物メジャー」ととらえるのが一般的である。
商品先物における歴史的な買占め事件として、ハント兄弟(米)の銀買占め(1979~80)が有名だが、クックを倒産させたのもこの兄弟である。ハント兄弟は石油事業の成功による豊富な資金力を背景に、77年シカゴ商品取引所(CBOT)の大豆買占めに乗り出した。一方のクックは大豆を供給過剰と判断して売り向かい、結局クックは大豆仕手戦に敗れた。この時の損失拡大が致命傷となり79年、クックは倒産に追い込まれた。
一方でクックの倒産は米国穀物市場への日本企業進出に関して起点となった出来事でもあった。倒産の過程でクックは保有資産の売却を余儀なくされ、穀物の貯蔵施設であるカントリーエレベーターや輸出用エレベーターなどを次々に手放すこととなったが、これらの買い手に日本の大手商社も何社か含まれていたからである。
なお、ハント兄弟は銀の買占めに失敗して破産するが、これをモデルにした映画「Trading Places」(邦題「大逆転」1983)は、銀がオレンジジュースに変わってはいるものの、米国商品先物取引の模様を最もリアルに描写した映画と評価されている。
ソ連の大量買付けから1年後の1973年6月、ニクソン政権は穀物輸入国に対し、事前通告なしに大豆その他油糧種子製品の輸出を禁止する旨を表明した(ただし契約済みの大豆のうち未決済分の50%までは輸出を許可)。これほど強引な禁輸措置は例がない。前年から続く食品価格の高騰で米国民の不満が溜まっていたからである。特に牛肉、卵、牛乳といった必要不可欠な食品の値上がりが顕著だった。
この一方でソ連に対しては緊張緩和策を押し広げ、より通商面での拡充を図った。ニクソンの後を継いだジェラルド・フォード大統領は75年10月、ソ連と穀物協定を締結している。内容は800万t以内であれば事前協議なしに米国産穀物の輸出が可能で、超過分に限って事前協議を課すというものだった。規制を緩和しつつ穀物を今後の国家交渉の軸に据えようという、ある種の懐柔策であったが、79年12月24日、状況を一変させる出来事が勃発した。ソ連軍がアフガニスタンに軍事侵攻したのである。
金先物上場きっかけに対ソ連穀物買付け包囲網
ソ連の軍事侵攻により米ソ間には大きな緊張が走った。ジミー・カーター大統領は年明け直後の1980年1月4日、ソ連に対し穀物輸出の禁止措置を発動した。この時米ソ間で2,500万tの穀物売買が契約されていたが、前述の協定に則し800万t分は差し引いたが、残り1,700万tの小麦およびトウモロコシの船積みは許可しなかった。これによる穀物相場の混乱を回避するため、7日と8日の2日間、混乱を避けるためシカゴ穀物市場を閉鎖した。取引を再開した9日、案の定寄り付きから小麦はストップ安を付け、終日売り気配一色となった。カーター大統領はさらなるプレッシャーをソ連に与えるべく、穀物の主要輸出国であった国々にソ連への穀物禁輸を求めた。だがこれに同調したのはオーストラリアやカナダなど先進国だけで、アルゼンチンやブラジルは米国の要請に応じないばかりか逆にソ連への輸出を増やす結果となった。
また米国内では売れ残った穀物に対し、農家や穀物メジャーが政府に補償を求める動きに発展した。一部の専門家からは穀物は武器になり得ないとする見方も出た。実際、カーター政権の禁輸措置でソ連が受けた穀物の輸入量減少は300万tほどだったとされる。だがその一方で、ソ連も輸出国からプレミアム付きの高価格な穀物を輸入したことで、10億ドル分の外貨を支払ったとみられており、穀物戦略にある程度の効果はあったとする声もある。
事実、その後のレーガン政権では、対ソ連における外交で穀物が重要な戦略物資の役割を果たしている。米国はソ連に穀物を売らないというそれまでの基本戦略を変え、ソ連が穀物を買えない状況に追い込む作戦にシフトしたのであった。この作戦の中心となったのは金(ゴールド)である。
少し時代を戻すと、74年8月8日、ニクソン大統領はウォーターゲート事件の責任を取り翌9日に辞任することをテレビで表明した。副大統領から昇格して跡を継いだフォード大統領が最初に署名した法案が、「金所有の自由化」だった。そこから年内(12月31日)のニューヨーク商品取引所(COMEX)による金先物の新規上場に至った。これが現物市場でなく、先物だったことが大きなポイントである。
当時金の現物市場はロンドンが最大規模で、同じ現物市場で後追いした場合、巨額の資金投入が必要となる。だが先物市場での取引高が現物市場のボリュームを凌ぐようになると、価格決定権における影響力がロンドンからニューヨークへ移ってくることになり、米国は金の価格覇権奪取に本腰を入れたのである。
COMEXの金先物上場から6年後、取引ボリュームは2万4,000t強まで膨らみ、共産圏を除いた年間産金量の24年分に相当する量だった。81年6月、米国で金委員会が発足し金本位制への復活を検討したことがある。17人の委員のうち9人が反対したため1票差で否決された形となったが、第2次石油ショック(1979)でインフレが加速しており、金価格も高騰していた状況も影響は大きかっただろう。
また、当時のソ連は穀物調達費の捻出などで経済状況が悪化し、外貨獲得のため金、原油、ダイヤモンドなどの物資を売却する必要性に迫られていた。こうした中で金本位制を復活させた場合、米国の利益は大きいが、同時にソ連経済も再生させてしまうという米国の懸念があった。このため、高金利政策の維持によりソ連の外貨獲得を妨害し、穀物を簡単に調達させない政策を実行した。
これら一連の作戦は米国にとって、金の価格決定権を握り、ソ連経済ひいては軍事力を弱体化させ、さらに小麦・トウモロコシの価格決定権まで世界にアピールする―という一石三鳥の効果をもたらした。実際、70年代以降は米国の穀物主要生産地であるイリノイ、アイオワ、ミシガンなど中西部各州の気象データだけでは値動きがつかめなくなっている。「先物王国シカゴ」の中でも「キエフやボルゴグラードの気温や降水量のほうが時には重要になる。穀物の世界ではワシントンといえば農務省あるいは議会の農業委員会のことを指していたが、いまでは国務省の外交政策、ペンタゴン(国防総省)の軍事政策にも目が離せなくなった」と指摘している。
穀物が外交上の武器に変貌したことで、穀物市場の正確な分析には関連データはもちろん、政治や軍事情報までも精査する必要が出てきたのである。
こうして米国産の穀物は全世界が注目するドル箱商品となり、必然的にシカゴでの価格が事実上、世界の穀物価格の指標となったのである。
(Futures Tribune 2024年1月1日発行・第3260号掲載)
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