誕生40周年東工取物語【下】~ザラバvs板寄せの代理戦争

2024-12-12
2024年(令和6)12月3 日 第3328号の本誌

2024年(令和6)12月3 日 第3328号の本誌

 東京工業品取引所の渡辺佳英理事長が自身の方針を記した、いわゆる「渡辺メモ」の流出で亀裂が入った取引所と商品取引員だったが、最終的には渡辺理事長と業界リーダーである清水正紀氏(全国商品取引員協会連合会会長)との全面対決に収斂した。いわばザラバと板寄せの代理戦争でもあった。結果的には渡辺理事長を辞任に追い込んだ清水会長の勝利ではあるが、渡辺氏の主張はその後ほとんどが実行されたので、結局勝利も敗北もなかった。渡辺氏が指示した方向に業界が進んだことは疑いようがなく、この事件の本質をついた結論であった。


 渡辺佳英理事長を形容する際、商品先物業界では往々にして「独善的」と称された。ただ、渡辺メモが流出した後も、大半の取引員経営者は不満を口にはしたものの、理事長を辞任に追い込むまでの動きはなかった。ザラバ化への変更方針についても同様の空気だったが、業界が注視していたのは全国商品取引員協会連合会(全協連)会長として取引員のリーダーであった清水正紀氏との戦いである。清水氏は根っからの単一約定(板寄せ)主義者で、ザラバ化には反対の立場を鮮明にしていた。
 両者の亀裂が決定的になったのは東工取でのある集会(総会か理事会のいずれか)だった。渡辺理事長と清水会長の「ザラバvs板寄せ」の激論はこの場が初めてではなかったが、一向に刀を鞘に収めない清水会長に業を煮やした渡辺理事長が、「以後の発言を禁止します!」と突然宣言したのである。その剣幕のすごさに清水会長は憤懣やるかたない表情を浮かべながら、一応口をつぐんだ。
 だがこれ以後、清水会長の渡辺理事長に怒りは収まらず、当時取材した本紙記者は清水会長から、発言禁止の措置がいかに不当なものであるか六法全書まで持ち出して何度も訴えられたという。その怒りは時が経つほど増大していった模様で、ついにはザラバ板寄せ問題や剰余金処理など対立要因となっている各事項が怒りを軸に統合され、結局怒りの炎が渡辺理事長の「独善性」という人格的な部分にまで燃え広がったことで、両者は全面対決の様相を呈するようになったのである。渡辺、清水両氏ともに1915年(大正4)生まれの同年代だったことも対立に拍車をかけたのかもしれない。
 渡辺理事長は当時東工取の将来ビジョンを構想し、矢継ぎ早に実行に移していた。ぐずぐずしている暇はなく、妥協してもいられなかった。当然取引員からの批判や反発はある程度織り込み済みだっただろうが、逐一意見に耳を貸していては改革が中途半端な形で終わるという懸念が勝っていたのだろう。渡辺理事長にとって東工取は、従来の商品先物業界とは一線を画す存在であり、このため過去の慣習を踏襲しないことに何のためらいもなかった。だがこうした姿勢が独善的だとの評価につながってしまう。それに、取引員を軽視する言動があったことも事実である。東工取の設立披露パーティーでの理事長挨拶で「取引員の連中」という発言が飛び出し、これは物議を醸した。通産省OBの渡辺理事長は、東京金取引所の初代理事長に就任する前、次官級の天下りポストとされた中小企業金融公庫総裁などの要職を歴任している。自身の手で業界を変えるという熱意やプライドはあっただろう。
 一方の清水会長は茨城県大洗町出身、高等小学校卒業後上京し大野藤次郎商店株式部の小僧となった。店の経営が傾くと中国大陸に渡る。満州の奉天で株式売買の振興洋行に勤務し、同社の経営不振により今度は朝鮮に転じた。ここで朝鮮証券取引所の会員だった白井友之助商店に入る。ここで第二次世界大戦の戦局の厳しさを予感し、株の暴落を予言したところ非国民扱いされ、現地に居辛くなり帰国した。これが1945年1月、終戦の半年ちょっと前である。ところが3月10日の東京大空襲で丸裸にされ、水戸に住んでいる姉のもとに身を寄せるが、8月10日の艦砲射撃と空襲で無一文となった。それでも戦後証券取引が再開すると兜町に現れ、街頭に立ち株の予想屋のようなことをやっていた。これが何度となく的中しセーキ情報社を発足、後にカネツ商事へと繋がっていく。文字通り裸一貫から身を起こした生粋の商取マンであり、リーダーとして業界を牽引しているという矜持も大きかった。なお清水会長時代のカネツ商事は東京穀物商品取引所の隣にあった。清水本人は農産物市場に愛着を持ち、特にコメ先物の復活を熱望していたという。
 清水会長は板寄せを世界に冠たるものだと主張し続けた。それも証券業界に身を置いた経験からザラバ取引の仕組みを理解していたからで、ある時シカゴの市場でザラバ取引を悪用したブローカーの不正事件が発覚した際、日本経済新聞の紙面に以下のコメントを寄せている。
 「大勢の売り手と大勢の買い手が集団見合いのように相手を見つけ、約定していくザラバ取引では、今回のいわゆるゲタバキ事件は不可避ともいえる。ブローカーが百円で買った商品を百一円で買ったと偽って顧客にゲタを履かせ、その分を自分のふところに入れてしまう」。
 こうしてザラバ板寄せ議論を発端に遺恨を深めた両者の対決は、カネツ商事の会議室で東工取と東穀取が互いに、自前のシステムについての優位性の語り、かつ相手のシステムの欠点を指摘するという公開討論会にまで発展した。さらには清水会長が渡辺理事長の「理事長としてふさわしからざる行いと言動」を列挙した、業界内で「血判状」と呼ばれた通知を作成し、関係機関に提出した。
 そしてついに1987年6月30日、渡辺理事長は突然辞任を表明した。これについては裏で様々な憶測が飛び交ったが、清水会長は生涯詳細を語ることはなかったという。

<了>

(Futures Tribune 2024年12月3日発行・第3328号掲載)

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