誕生40周年東工取物語【上】~在京3取引所の統合で発足
2024-11-22TOCOMビル外観
在京の3取引所が統合し東京工業品取引所(現・東京商品取引所)が発足したのは1984年(昭和59)11月1日で、40年が経過した。関係者の期待どおり、2000年代に入ると一時は年間出来高がニューヨーク商業取引所(NYMEX)に次ぐ世界第2位を記録するなど活況を呈したが、今は日本取引所グループ(JPX)傘下の子会社となり、貴金属市場やゴム市場を大阪取引所に移管してエネルギー商品の専門取引所となっている。取引所機能はすべて兜町に移り、東工取ビルも大手ホテルチェーンに売却されたため、建物は解体され現在更地になった。今回、東工取の歴史を振り返ってみたい。
1982年2月、金先物の上場を機に開設された東京金取引所は、商品取引所としては56年の名古屋穀物取引所以来26年ぶりの設立であった。一方で商品取引所は70年代から地域ごとに統合させ複数商品市場とすることが課題とされていた。しかし統合に関しては会員持分の処遇や事務所の問題など実務上解決しなければならない問題が多数あり、取引所の統合はなかなか進展しなかった。
だが84年に入ると統合が本格化する。10月、大阪化学繊維取引所と大阪三品取引所が統合して大阪繊維取引所が発足し、翌11月に東京繊維取引所、東京ゴム取引所、東京金取引所が統合して発足したのが東京工業品取引所だった。ここで統合に関する流れを振り返ってみる。
83年2月、3取引所で統合に向けた初会合が行われ、84年5月に11月1日の統合を目指すことで3取引所の合意を得た。
なお当時は手振りによる立会取引だったが3取引所による市場部長会議で、3取高台担当者19人を4チームに分け、2チームで1つの立会いを担当し、繊維、貴金属、ゴムの立会いを受け持つといった市場の共同化策は84年5月から実施された。
同時に制度問題、定款諸規定、内部関係諸規定の3部会を設置し検討に入った。具体的な項目は、例えば出資金の問題で、当時東繊取で30万円、東ゴム取で50万円、東金取で100万円とバラバラだった金額をどう一本化していくか、また持分比率をどうするかなど、調整が難航しそうな問題が残っていた。
84年当時の会員数は東繊取が95(うち取引員35)、東金取159(同45)、東ゴム取58(同29)で、これらが統合時に会員数312、取引員数109(重複を整理すると会員数212、取引員数62)という大所帯になることで、慎重な調整が求められたのである。
持分比率については東繊ビル(東工取ビル)の不動産取扱いがカギとなり、特に土地の問題をどう扱うかが焦点となった。
合意に至ったのは9月で、①東繊ビルは東繊会員の固有の持分として留保し、その権利を定款に明記する、②家賃収入は統合後の取引所収入とする、③東繊157口、ゴム87口、貴金属440口の出資口数のうち、剰余資産の多いゴムは3倍の261口に増やし、出資金は1口、最初は30万円程度とし財産整理の過程で3~4カ月後に80万円~100万円に至らせる、④ゴム、貴金属で余った分は特別担保金の形で積むこととし、出資金の減額は極力避ける―などの内容となった。
役員構成は商社、メーカー、取引員から3取引所それぞれ10人ずつ、計30人で校正されることとなり、常設委員会は総務および紛議調停の委員会を一本化し、会員資格審査、市場管理、品質または格付委員会を貴金属、ゴム、繊維の市場ごとに置くこととなった。
なお名称は10月、東京工業品取引所に決まったが、当初は国際的に通用するネーミングとして「東京商品取引所」が第一候補だった。だが「東穀取があるのに東京の商品取引所を代表するかのような名称はけしからん」と、農水省から猛烈なクレームがついたため、「工業品」を名乗ったのは苦肉の策であった。
<続く>
(Futures Tribune 2024年11月19日発行・第3325号掲載)
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