ありがとう、多々良義成さん~激動の思い出【4】
大蔵省vs通産省攻防続く、愛妻喪うも市場創設に邁進
2023-07-14金先物市場創設に奔走していた頃
出典:(株)市場経済研究所「フューチャーズ群雄の素顔」
安倍発言を受け翌1981年、自民党政調会に「金市場問題懇談会」が発足した。座長には参院議員の斎藤栄三郎が就任し、2月19日に初会合を開催した。義成氏はこの懇談会に議員秘書に成りすまして顔を出していた。ある日、以下の場面に遭遇する。大蔵省の関要・国際金融課長と通産省の江崎格・商務室長が会場で鉢合わせした。関氏が「通産は本気で金市場を作るつもりかね」と聞くと、江崎氏は「やりますよ」と即答した。義成氏は間近でこの一言を聞き、千金の重みを感じたという。
この時点では通産省がややリードといった局面だったが、関氏は国会で金市場問題が議論されている状況にもかかわらず、急遽渡欧し金市場視察を試みる。これを当時の日本経済新聞は「通産省主導型で展開し始めた金市場づくりに対する大蔵省の焦りにも似た気持ちが汲み取れる」と報じている。
斎藤座長は関氏の帰国を待ち答申を取りまとめる方針であったが、義成氏の心には不安がよぎっていた。大蔵省の中でも切れ者で知られる関課長が帰国すると、これまでの流れがひっくり返るかもしれないと考え、安倍邸に走った。結果、斎藤座長は関氏の渡欧中に答申をまとめるという力技を発揮し、この答申は4月1日付で出され、商品業界内で「五カ条の御誓文」と呼ばれた。
答申の冒頭には「金を商品取引所法による政令指定商品として、先物市場を開設する」と明記された。
大蔵省同様、金取引所が商品先物業界を主軸にする方向で話が進められることを、証券業界も危惧していた。通産主導の状況をひっくり返し主導権を奪還するため証券3団体で1981年4月7日、「金市場研究会」を設置している。答申後1週間にも満たない時期である。
さらに大手4大証券(野村・山一・日興・大和)を含む13社の証券会社で金取引所の設立に向けた具体案をまとめるための小委員会も設置した。4月17日には具体的作業を行うためのワーキンググループを発足させている。それと並行して世界の金市場を調査し、1カ月で完了させるという急ピッチのスケジュールを組んだ。
証券業界の構想は、大蔵省の意を汲んだ形で金を「ニア・キャッシュ」と捉え、金取引所設立を日銀と絡めて進めていこうとするものだった。このため商品先物業界が金を扱うことは現実的でないとする理屈で議論を仕掛けてきた。
これも行動が早く、証券業界はまず6月に大蔵省とすり合わせを行い、その後7月には大蔵省と通産省の金を巡る再度の綱引きが行われるはずだと踏んでおり、最低でも「折り合いつかずの引き分けで両省共管」に持ち込むよう働きかけるつもりでいた。
なおこの当時銀行は、富士、住友、東京の3行が金取引所問題に高い関心を示し、第一勧銀、三菱、三和は態度を明らかにしていなかった。
対する商品先物業界は、晋太郎政調会長から金取引所設立に関するプロジェクトを任された斎藤座長が、金取引所はニューヨーク商品取引所(COMEX)の金市場を参考にする旨を公言していたこともあり、COMEXに関する規定の翻訳に着手していた。
こうした中で突き付けられた証券業界からの宣戦布告に対し、「銀行、証券が出てくるのなら、商品取引所に債券、為替、金利もよこせ。アメリカでは先物に関しては商品・証券・金融も含む統一法でやっている」と反論している。
金取引所の大蔵省主導に絶対反対の通産省も、4月の時点で翌5月の商品取引所審議会に持ち込み、遅くても8月中には金を政令指定商品とし、年度内の1982年3月までに金取引所を開設する算段であった。そのため当時商品先物業者が進めていた東金会などの私設市場について「実績作りのための勉強会にとどめるべし」との御触れを出している。
大蔵省も対抗すべく5月7日、先物取引に係る証拠金や差金に関する国際間の受け払いについて「これらは外為法上許可を要する」として金の先物取引について「改めて外為省令で金を指定商品とする」と主張した。さらに金取引所の参加業者に対しても「大蔵省が指定することにより、証拠金等の国際間の受送については許可不要の措置を講ずる」と、外為法の省令を都合よく改正した。
この改正は、金の先物取引を国際的ビジネスに展開しようとしている商品先物業者は、大蔵省の指定業者に認められない限り金先物に係る証拠金や差金の受送信は不可とするもので、こうした下地を形成した上で金取引所への介入措置を講じて来たのである。
対する通産省は5月22日、「金の政令指定」および「非上場商品に係る先物市場開設並びに海外商品取引所における取引の勧誘問題への対応のあり方」について商取審に諮問した。そこで金の政令指定を先決することを条件にし、6日後の28日、「金取引に係る省令の改正を是」とする答申を行った。
なお同日は証券サイドも金市場問題研究会の第2回会合を開催し、6月中に「証券業界における金取引のマスタープラン」を作成し、7月に大蔵省並びに自民党と折衝の上で7~8月頃に商品先物業界と懇談の場を持つことを決議していた。
こうした動きに対しても通産省は当初の方針に沿って9月16日、規定方針どおり金を商取法に基づく政令指定とし、同月26日に施行した。
これにより証券側のマスタープランは日の目を見ることなく幻に終わった。
大蔵・通産両省に関しては表から見える一連の動きを経つつ、おそらく水面下でも相応の駆け引きがあったに違いないが、結果的に金取引所問題は通産省の勝利に終わった。大蔵省は9月22日、最後に「金を資本取引と同様、外為法に基づき有事規制の対象とする」と定め、矛を収めた形となった。
金は9月16日付で政令指定され、義成氏は金取引所設立に向け突き進むこととなる。年度内という目標もすでに折り返しに差し掛かり、残された時間は半年あまりしかなかった。
この直後、10月26日に義成氏の愛妻・美津子夫人が急逝した。病名は再生不良性貧血症で、享年42歳であった。四十九日の法要を終えた後、義成氏は最後の課題に取り組んだ。金取引所の取引資格に際し、商品先物業界からは30社という枠組みがついた。この事前選考を義成氏ら4人が担当したのである。仲間を切り捨てる作業は精神的にかなりの負担を強いられただろうが、選考にあたり敵を作る結果となっても身びいきだけはしなかったと義成氏は自負している。
(以下、続く)
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金管轄巡る大蔵省vs通産省、渦中で力技の答申まとめ
参考:(株)市場経済研究所著「(商品先物市場)フューチャーズ群雄の素顔」,(株)市場経済研究所,1998年
(Futures Tribune 2023年7月11日発行・第3226号掲載)
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