先物市場、明治から昭和初期までの動乱【下】

2024-09-05

大正期におけるコメ相場の乱高下と国家権力の市場介入

 1912年(明治45=大正元)6月、東京期米当限が22円72銭に暴騰、立会停止で、翌日解け合い成立となった。
 政府は米価引下げ策として、米穀取引所の受渡し米に台湾米と朝鮮米を認め、端境期である8、9、10月の3カ月間に実施した。
 しかし、それでも米価の高騰は止まず、1913年(同2)の3月、新甫5月限取引にも実施し、正米市場においては延取引の禁止措置を行った。
 さらに1914年(同3)には取引所に関する法制上の改正を行って、「取引所法施行規則」と「取引税法」を新たに制定したのであった。
 要点は次の通り。

  • ①取引所役員と仲買人の兼職禁止。また、2つ以上の取引所の仲買人となること、および2つ以上の取引所の理事を兼ねることも禁止した。
  • ②取引所の役員、使用人が、その取引所仲買人や同種の物件を上場する他の取引所仲買人との間に、営業上特別の利害関係を持つことを禁止し、もって取引所相場の公正を期した。
  • ③取引所の役員と使用人が、その取引所の上場物件について取引所取引を為すこと、あるいは、その委託を為すことを禁止した。
  • ④取引所の役員および格付検査員の収賄行為に対する罰則規定を設けた。
  • ⑤「呑行為」取締りの規定を整備した。
  • ⑥委託仲介業者及び仲買人が支店・出張所等において売買の受託を為すことを禁止。
  • ⑦従来、仲買人が、取引所において行う売買については、取引所に課税していたのを、取引税として直接仲買人に課税することにした。(税率は従来の半分に軽減)
  • ⑧取引所に対しては、別に「取引所営業税」を課することにした。

 もっとも、それでも米価は暴騰、暴落をくりかえした。
・1915年(同4)1月 金融緩慢で米価暴騰。米価調節令を公布。
・同年9月 豊作期待で米価(期米)恐慌的な暴落。当限は10円80銭。
・1916年(同5)1月 一般経済界活況、米価高騰。11~12月暴落と混乱を極めた。
 この結果、政府は1921年(同10)4月「米穀法」を制定、米穀取引所は同法制下のもとに運営されることになった。
 いってみれば、国家権力の米穀市場への本格的な介入であり、この米穀法は、恒常的な米価政策の出発点となったのである。
 主旨は、低米価の際には、一定限度まで財政資金で市場から米を買い入れ、それを高値の際、売りに出すという内容であった。
 この米穀法は1933年(昭和8)の「米穀統制法」へ移行、いよいよ強力なものに改正されていったのだが、いわば間接統制への道である。


米穀統制への道

 1922年(大正11)、取引所法改正が行われた。同年は、2月末に大相場師である横堀将軍こと石井定七が鐘紡株と堂島期米の買占めで失敗、株式、米穀市場が動揺して、ついに大阪株式取引所は立会い停止となった年である。
   それより前、政府は1919(同9)年に、学者および関係官吏など15名をもって組織する「取引所法改正調査委員会」を設置して法制度の改革を研究させていった。
   その答申に基づいて、1921年(同11)に大幅な改正に着手したわけである。内容は、取引所法の改正と同時に「取引所令」の制定であり、次の要点であった。

  • ①取引所を会員組織にしやすくした。つまり取引所に課した強制担保の制度を廃止し、また取引所が各種の附帯兼務を営むことを認めた。
    さらに「商議員会」の制度を設け、会員および取引員中から選ばれた「商議員」と取引所の役員によって「商議員会」を構成せしめ、取引所の重要事項を協議させることにしたのである。
  • ②取引所市場外における投機取引の取締り規定を整備強化した。
  • ③証券取引をして実物取引化させる目的で、証券取引の限月を3カ月から2カ月に短縮した。
  • ④商品取引所に、新たに「短期清算取引制度」を創設、米については限月3カ月、蚕糸については6カ月とした。
  • ⑤株式会社組織の取引所の「仲買人」という呼称を改めて「取引員」とし、一定の制限のもとに法人の取引所会員および取引員を認めることにした。
 1920年(大正10)以後は、ひたすら米穀市場は「統制」への道程を急いだのである。

戦火による市場の機能停止

 同年の「米穀法」発布から1933年(昭和8)の「米穀統制法」発布まで、13年間でコメ相場は規制による締め付けが急激に強まった。
 まず1920年(大正10)~1924年(同14)、統制による数量面での調節であり、政府が米の買い上げや高値での放出で米価の需給を安定させようとした。
 第二段階は1924年(同14)~1931年(昭和6)、価格面での調節であり、政府が最高価格と最低価格を設定して米価安定を策したのである。
 そして第三段階1931年(同6)~1933年(同8)が、米価引上げ策の統制である。
 こうした段階的な分類よりも、大正後期から1945年(同20)の間は、日本史にとって暗黒時代であり、統制は必然の状況だったともいえる。

  • ・1917年(大正6)米国、対独宣戦布告(4月)、金輸出禁止(9月)
  • ・1918年(同7)軍需工業動員法公布(4月)、シベリア出兵宣言(8月)、富山県に米騒動勃発(同)
  • ・1920年(同9)第一次大戦後1回目の恐慌勃発(3月)
  • ・1921年(同10)米穀法公布(4月)、原敬首相暗殺(10月)
  • ・1922年(同11)第一次大戦後2回目の反動恐慌
  • ・1923年(同12)関東大震災(9月)非常微発令、威厳令公布(9月)、虎ノ門事件(12月)
  • ・1924年(同13)福田大将狙撃事件(9月)
  • ・1925年(同14)治安維持法、普通選挙法成立(3月)
  • ・1926年(同15=昭和元)若槻内閣成立、共同印刷争議(1月)、労働農民党結成(3月)、皇太子裕仁践祚(12月)、昭和と改元
  • ・1927年(昭和2)金融恐慌はじまる(3月)、鈴木商店破綻(4月)、第一次山東出兵(5月)
  • ・1928年(同3)三・一五共産党大弾圧(3月)、第二次山東出兵(4月)、日本軍張作霖を爆殺、治安維持法改悪(6月)、特高警察を全国に設置(7月)
  • ・1929年(同4)ニューヨーク株式大暴落、世界恐慌はじまる(10月)
  • ・1930年(同5)金解禁(1月)、私鉄疑獄(4月)、浜口首相狙撃される(11月)
  • ・1931年(同6)重要産業統制法公布(4月)、満州事変勃発(9月)、金輸出を再禁止(12月)
  • ・1932年(同7)上海事変おこる(1月)、井上準之助殺さる(2月)、満州国成立(3月)、五・一五事件おこる
  • ・1933年(同8)ドイツ・ヒットラー内閣成立(1月)、国際連盟脱退(3月)
  • ・1936年(同11)二・二六事件おこる。軍部大臣現役制復活(5月)、準戦時体制
  • ・1937年(同12)日中戦争開始(7月)、国民精神総動員運動開始(9月)
  • ・1938年(同13)国家総動員法(3月)
  • ・1939年(同14)第二次世界大戦勃発(9月)
  • ・1941年(同16)日本、開戦決定(11月)、真珠湾奇襲、マレー半島上陸
  • ・1945年(同20)敗戦
  •  こうした戦時体制にあっては、米穀取引所の存在価値など、皆無に等しくなるのは当然であろう。
     1939年(同14)4月の米穀配給統制発布によって、全国19カ所の米穀取引所と21カ所の正米市場は閉鎖(発展的解消と称した)、国策会社である「日本米穀株式会社」に統合されたのである。
     その他の商品取引所も、日中戦争勃発以後、戦時統制によってあらゆる物資の生産・配給・価格が国家の統制強化となったため、次々に閉鎖されていった。綿糸は、1937年(同12)11月から最高標準価格が設定、翌年5月20日の綿糸販売価格取締規則の制定で、すべての限月取引について最高標準価格が設定されてしまった。そして、同年6月30日の輸出綿製品配給統制規制の発布で、ついに取引所は継続不能となり、1939年(同14)4月以降、事実上、閉鎖されてしまった。
     次いで、綿花、綿布、生糸、乾繭、人造絹糸、雑穀、砂糖、肥料へと経済統制が拡大、商品取引所(27カ所うち会員組織7カ所)はすべて閉鎖されたのである。

    <完>

    (Futures Tribune 2019年12月17日発行・第2972号掲載)

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