オプション取引に乗せた夢 ②~古代ギリシャ時代に誕生

2024-04-24

 大坂堂島米会所が、世界初の公設先物取引所であることは広く知られている。幕府によって公認されたのは1730年と約300年前に遡る。それ以前の堂島では現物受け渡しを伴わない商いが禁制とされ、建前では米手形(享保年間からは呼び名が米切手)を対象とする取引のみが行われていた。幕府の方針が変わったのは1722年で、耕地面積の増加や豊作で米価が下がり始め、米本位制であった武士の収入に不足が生じ始めたことが理由だ。このため、幕府は先物取引が活発になれば米価が上がると考えたのである。先物取引は昔から、日本に限らず「ギャンブル」と見なされる傾向が強かったようで、例えばオランダ政府は1612年、早くも空売り・先物・オプションを禁止している。だがこれ以降も度々禁止を発令していることから、当時の商人は禁止令をあまり守らなかったようだ。今回はいったん近代を離れ、オプション取引の原型が誕生したとされる古代ギリシャ時代から、中世のヨーロッパ市場、さらにアメリカにおける取引所の誕生と先物市場の形成までを振り返る。


オプション取引の起源~古代ギリシャのオリーブ搾油機

商品先物取引と商品取引所の機能は古い歴史を持っている。古代ギリシャやローマの時代には、すでに特定の場所で定期的に市場が開かれ、物々交換や貨幣を用いた取引、将来の受け渡しを前提とした取引も行われていた。
 こうした中で世界初のオプション取引が、古代ギリシャ時代にオリーブ油に関連する商取引から誕生する。当時のギリシャの都市国家では土地が痩せ、穀物が充分に耕作できず、オリーブ油はワインと並ぶ貴重品だった。そこでギリシャ人のタレス(624~546B.C.)は一計を案じ行動に移す。
 それはオリーブが豊作になるとタレスが予測した年に、手付金を払って村中すべてのオリーブ搾油機について使用権を予約してしまうというものだった。予想どおりオリーブは豊作となり、精油機は農民の間で引っ張りだことなったが、使用権を独占していたタレスは大きな財を成した。
 これら一連の顛末は、タレスと搾油機を所有する農民との相対オプション取引と位置づけられる。タレスが搾油機の「使用権」をコール・オプションで買い、使用料(ストライク・プライス)は手付金の段階で決まっていたはずであり、契約期間(決済日)も収穫時期まで、また当然搾油するオリーブの実の量に応じて使用料も値上がりするなどの前提条件はあったはずだ。
 要するに、手付金をやり取りする類の商取引なら、何でもオプション性を備えているということになる。逆にいえば現代社会における様々な契約も、多くは手付金の類が発生するものであり、これが高いか安いかなどの判断を、「リアル・オプション」として分析することも可能だと見なせることになる。
 今回のオリーブ搾油機の取引を搾油機の保有者側から見れば、タレスとのカバード・コール(現物資産を保有したままコール・オプションを売る手法)であり、タレスに搾油機使用権のコール・オプションを売ったことになる。
 仮に搾油機を保有していない立場で投機目的でオリーブの不作に賭け、使用権であるコール・オプションを売っていたら、これはネイキッド・コール(現物資産を保有しないままコール・オプションを売る取引)となる。
 今回の例示ではオリーブが豊作となったが、タレスの独占で村中の搾油機が使えない状況で、もしネイキッド・コールで売ってしまった場合、搾油機を買う(もしくは借りる)か、相手方であるタレスの言い値でオプションを買い戻すしかない。買い手側のタレスはリスクが限定されるが、売った側の損失は無制限となる。オプションの売りがハイリスクで個人投資家には不向きとされるのも、こうした理由にによるものだ。
 ちなみにタレスは、アリストテレス(384~322B.C.)によって世界初の哲学者として紹介され、「万物は水である」との言葉も残している。伝説によると、商用でエジプトに渡った際、エジプトの神官から数学と天文学に関する知識を学んだようで、オリーブの豊作予想も天文学を駆使して予測に至ったと思われる。他方の数学についてもギリシャ数学の開祖となり、弟子の一人にピタゴラス(572~492B.C.)がいるが、師匠を真似たのか「万物は数である」と語っている。


中世の市場~交易の拡大と商都の形成

これらの文明の滅亡後、封建時代には、物資の広範な流通は途絶えたが、市場の基本原則だけは残り、いくつかのローカル・マーケットが点在していた。中世では、最初の交易者組合が、特定の時間・場所を予告して市を開く慣習を復活させた。この交易者組合は、政治的な援助のもとに地方で市を開いていた商人や職人、その賛同者たちで構成されていた。“ほこりにまみれた足の人々”(=Pieds Poudres)と呼ばれた彼等は、定期市を開催しては、町から町へと旅をしていった。
 例えば、シャンパーニュの大市のような大規模な交易市は、バルト海やフランドル地方と地中海との公益が盛んになった12世紀頃に始まっている。当初は常設でなかったが、やがて一カ所に固定した常設市となり、地域は商都として発展していった。
 こうして現在のベルギーの運河の街ブリュージュは、イタリアとハンザ同盟都市との交易中心地として栄えた。
 イギリスでは取引慣習の確立につれ専門化が進み、イギリス人とフランダース人との間の取引や、イギリス、スペイン、イタリア、フランスなどの商人間の取引を専門とする市ができた。1215年には、外国人商人がイギリスの市に自由に出入りできる権利がマグナカルタにより確立された。13世紀にはその場で受渡しを行う現物取引がほとんどだったが、後で受渡しを行う見本品を使った標準物取引の慣習も生まれつつあった。
 なお、欧州ではロンドン以外の取引所を一般名詞として「ブルス」と呼ぶようだが、語源は前述した商都ブリュージュで、商人宿のブルス家に商人が集い、金融を含む様々な商品の取引が行われていたことに由来している。
 ブリュージュはやがて運河が砂で埋まり、ハプスブルク家によって自治権を喪失させられたことなどが原因で、商人たちは同じベルギーのアントワープに移住した。この結果、16世紀の北ヨーロッパではアントワープが最も繁栄したが、背景として恒常的になった戦費調達のため各王室がアントワープを金融の取引場所として利用するようになったことも大きく影響した。
 また、中世の時期はグーテンベルクの印刷技術の発達により、金融の大きな発展を促した。まず、証券や帳簿類の偽造は格段に難しくなった。なお、印刷機の発明から約半世紀を経た1495~97年の間に、全ヨーロッパでの新刊書出版数は1,821点だったが、うち447点がヴェネツィアで、2位のパリ(181点)を大きく引き離していたとされる。イタリアが当時のヨーロッパ文化の中心であり、また情報発信地であったことがわかるデータといえる。


取引所の誕生と発展~アントワープに設立

世界初の商品取引所は1531年、アントワープに設立された。穀物や香辛料といった日用品の先渡し取引が行われた。
 イギリス王室金融代理人のトーマス・グレシャムは、アントワープの取引所を参考にして、ロンドンに為替とコモディティを扱う取引所を作った。これが1571年、王位のザ・ロイヤル・エクスチェンジとなる。だがロンドンの株式ブローカーは当時マナーの悪さから取引所に入れてもらえず、最初は外の通りで、後には近くのコーヒーショップに集まるようになった。
 これがジョナサンズ・コーヒーハウスで、ここが1748年に火事で焼け、その後再建された新ジョナサンズが1773年、「ロンドン証券取引所(LSE)」と命名されるに至る。
 18世紀になると、商品取引所は中世の定期市の慣習にならって、自主規制のルールや調停及び施行の方法を取り入れた。中世の定期市は、交易慣習を定着させ、近代商業の発達に重要な貢献をした。それはやがて、地方当局の指導基準を制定した法典となり、商人法として中世のイギリスで知られるようになった。その基準は最小限のものだったが、契約手続き、売買証書、船荷証券、倉荷証券、信用状、証書の書換え、取引所のその他の証書についての慣習の基礎となり、この法典の規定を破った者は、同業者から追放されることもあった。これら自主規制の原則は、イギリス一般法の中に見られ、アメリカ植民地にも受け継がれて各州で適用された。
 イギリスの商人組合は、規制の自主管理権を、地方および国家の政治当局から獲得し「市場の法廷」を設置した。それは「Pieds Poudresの法廷」とも呼ばれ、買い手と売り手との間の争議を調停し、罰金や損害賠償金の査定をすみやかに行った。この法廷の権限は、14世紀にイギリス慣習法で正式認可を受けた頃には、すでに地方裁判所のそれを上回っていた。
 取引所の発達は、ヨーロッパ各国だけではなく、同じ時期には日本やアメリカでも始まっていた。日本の商品取引所の設立は証券取引所より1世紀半近くも早く、1700年代にさかのぼる。ヨーロッパやアメリカでは証券市場が商品市場に先行して設立されたが、日本のパターンは逆であった。

(Futures Tribune 2024年4月24日発行・第3280号掲載)

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