オプション取引に乗せた夢 ①~米CBOE成長の軌跡
2024-04-22国内初の商品先物オプションは1991年6月、東京穀物商品取引所が始めた米国産大豆先物オプションである。その後97年9月、トウモロコシ先物オプションを追加した。農産物以外では東京工業品取引所(現・東京商品取引所)が2004年5月に金先物オプションを上場している。金はもちろん、20年前に比べ流動性が著しく減ったトウモロコシも大豆も当時は出来高が多く、先物取引とオプションを組み合わせることでリスクヘッジの多様化が見込め相乗効果で出来高も高まると踏んでいた商品先物業界の思惑は完全に外れた。今回は当時を振り返りつつオプション取引を特集する。
73年オプション取引所CBOE設立、取引活況で日本も注目
アメリカにおけるオプション市場の整備は南北戦争後に進んだ。1865年に戦争が終わると、投資家のラッセル・セージ(1816~1906)がオプション取引の制度化に着手したのである。南北戦争以前にもアメリカでは商品や株式を対象に店頭オプション取引が行われていたが、ディーラーの不正行為が多発するなどしたためオプションはほとんど注目されなくなった。セージはそんなオプション市場の信頼性を向上させるため「オプション取引業協会」を設立し、取引参加者を会員制にした。
時が下って第二次大戦後にオプション取引所の開設が検討されたが、協会会員にとって資本投下の見返りが少なく話は見送られた。またアメリカ国内の取引所間競争が激化し各所経営的な余裕がなかったことも影響し、オプション取引所創設の動きは盛り上がらなかった。
オプション取引所の設立が具体化したのは1960年代に入ってからで、嚆矢はシカゴ商品取引所(CBOT)であった。当時ニューヨーク証券取引所(NYSE)を中心に株式市場が活況を呈しているのに対し、CBOTの主力であった穀物市場が低迷していたからである。CBOTはまず株式オプションの導入を検討したが、外部調査機関から新たな清算機関の設立がカウンターパーティリスク対策に不可欠であるとの指摘を受けた。このためCBOTは1973年、取引所内にインハウス型の清算機関「Options Clearing Corporation」(OCC)を設立した上で、オプション専用取引所として「シカゴオプション取引所」(CBOE)を立ち上げた。
CBOEは73年4月、IBMやゼロックスなど大手16銘柄を取引対象とする株式オプションを上場した。当初はコール取引のみの扱いで、プット取引の開始は4年後の77年からである。
結果的にCBOEのスタートは絶妙なタイミングとなった。市場開設の半年後、10月に第1次オイルショックが発生し、株式市場が下落局面に入りその後の展開予想が難しいさなか、これがオプションの注文増加に直結して流動性が向上した。
こうした動きを他の取引所が静観するはずもなく、75年にはアメリカン証券取引所(AMEX)やフィラデルフィア証券取引所がオプション市場を開設した。その際清算機関はOCCが活用され決済の効率化が図られた。
CBOEの急成長は、日本のオプション市場創設に多大な影響を与えることとなった。ただオプション熱の鼓動は地方から生まれている。まず名古屋や大阪の地場証券がオプションに注目し、76年に地方証券取引所振興策の一環としてオプション制度の導入に向けた意見書が出されたのである。これに日本証券業協会が反応し、証券取引制度専門委員会を発足した上でオプション導入の検討に着手した。
(Futures Tribune 2024年4月24日発行・第3280号掲載)
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