コメ相場と格闘した八代将軍・吉宗【下】

2023-10-28 徳川吉宗イメージ画

封建体制の危機

 諸藩は米本位経済の上に立っていたため、年貢米を換金して、他の必需品を手に入れなければならない。このため、米価が他の物価の基準となっていた。
 ところが、1727年(享保12)頃から、米価は下落するのに、他の物価はさほど変動しなくなってきた。これは封建領主にとっては、予想だにしなかった大問題である。まして吉宗にとっても、「御恥辱をも顧みず」参勤交代制を犠牲にして上げ米の制をしき、農民を絞って年貢の増収をして財政を建て直しても、当の米価だけが下落すれば、たちまち、幕府財政の実質減収となるのである。正に幕府の死活問題である。
 米価の下落の原因は、直接的には豊作であるが、それに加えて貨幣改鋳による通貨収縮などで、享保末頃には不景気状態となり、貨幣欠乏気味の諸藩が大阪に回送する米を増量してきた。しかし、それを見こした商人が、米の買い控えをしたために、米価の下落が顕著になってきた。
 この米価の下落は、幕府の財政に影響するだけでなく当然、米を収入源としている農民にも、幕臣である旗本、御家人にも大きな打撃を与えた。
 農村では米価と物価のアンバランスがひどく、肥料1つでも以前の7、8倍の差が出ていた。
 また、元禄以来向上しつづけた都市の消費生活に慣れ親しんだ旗本は、収入の禄米の価格は下がる一方なのに、物価はむしろ上がっているという情況に、窮乏に窮乏を重ねる生活であった。
 幕府の土台にあたる農民と旗本が、このようにあえいでいては幕府財政減収どころか、封建組織崩壊につながらないとも限らない。幕府体制を維持するためには何としても、農民と旗本を救い出さねばならない。それには米価のつり上げが喫緊の問題である。ここに吉宗と米相場との闘争が開始されるのである。


米価の暴走と吉宗の苦悩

 まず最初に、米価騰貴の原因になるとして、それまで禁止されていた米切手の転売を許した。米切手とは、米仲買人が、諸藩から売却される年貢米を落札し、これを処分する間、蔵屋敷に保管を委託し、その保管の証券として、蔵屋敷が発行したものである。
 次に、上方筋から江戸に廻る米は、高間伝兵衛等、本米問屋8人以外と取引することを禁じ、諸大名の江戸、大阪に出す米量も抑えるように命じた。これは、正米の出荷を制限して、消費地に出回るのを防ぐことにより、米価を引き上げる狙いがある。
 また更に、1731年(同16)には幕府は加賀藩に借金し、江戸、大阪で67万両という大量の米買付けを、高間伝兵衛にやらせた。要するに買い占め、出し惜しみによる米価上昇を目論んだのである。
 ところが、吉宗が米価引き上げに懸命になっていた頃、1732年(同17)、西国、中国、四国地方に大蝗害が起こり、餓死者、96万990人を出すという大凶作に見舞われた。このため米価はたちまち騰貴して、2年前の30匁を下回った米価から、その年の末には一躍して、4倍の120匁にまで上がってしまった。
 今度は、米不足による米価上昇で、江戸や大阪の市民が飢え始めた。そうした市民の強い要望で、幕府は買い占めた米を、一斉に放出せざるを得なくなった。
 この時、市民の不満は、米穀御用達の高間伝兵衛に集中した。前年に吉宗が、伝兵衛を通じて買い占めさせたことを、市民は伝兵衛が特権を利用して米を買い占めこの騰貴を招いた原因であるとみたのである。怒った民衆2,000人近くが伝兵衛の家を襲い、家財道具を散々破壊してしまった。これが最初の“打ちこわし”である。伝兵衛は吉宗の命に従って行ったことだったのに、大変な悪党にされてしまったわけである。
 しかし翌年は大豊作で、再び米価は下落してしまった。このあまりの米価の変動に、ついに1735年(同20)10月、吉宗は、米相場安定のための“お定め相場”の実行に乗り出した。つまり、江戸では金1両につき、米1石4斗以下で、大阪では、米1石を銀42匁で買い受けることを定めたのである。これ以下の値段で買い取る者は、1石につき10匁の運上銀を取り立てるとの懲罰も設けられた。
 米本位の経済を基盤とする吉宗にとって、この米相場安定は、それこそ命がけの大仕事だったのである。反古紙の裏にびっしりと書きつづられた米相場の数字は、正に吉宗の、血のにじむような思いがこめられていたのである。
 しかしながら、この様な吉宗の必死の策にもかかわらず公定相場は思いのままにゆかず、同年の12月、翌年の1月、さらに3月と、次々に相場を改正したが、6月には廃止のやむなきにいたった。


商人の台頭と吉宗の敗北

吉宗が、藩財政再建によって、名君として世に注目された頃、1716年(正徳6)わずか4歳で将軍職についた家継が、4年足らずで病床に伏してしまった。将軍家継が8歳の若さで継嗣がないことから、御三家紀州藩吉宗に、その後見職という大役が突然に与えられることとなった。
 吉宗は元禄以来の士風の退廃を一新するために、武芸を奨励し鷹狩りや馬追い狩りや水練を再興し、諸大名に対しては、財政を緊縮し、倹約を守るように、おふれを出した。
 倹約令は吉宗の「享保の改革」の第一歩であった。


窮迫する幕府財政

“米将軍”吉宗は、ついに米相場を征服できなかった。
 吉宗が唱えた武断主義は、徳川幕府草創期の復旧を意味し、家康時代の社会を理想としていた。それは「勧農抑商」「貴穀賤金」を政治の根本として営まれる自然経済の社会である。しかし、元禄時代をすぎる頃には、もはや商人は否定することのできない存在となっていた。吉宗はそれにもかかわらず、消費生活の抑制と、商品の生産、販売をも抑制する方針で享保の改革をすすめていったのである。さかんに出した倹約令がまずその典型である。
 この様に、吉宗は享保改革において、従来幕府がとってきた商業統制策をかえて、商工業者の仲間、組合の持っている、価格決定力や商品に対する支配力を積極的に利用して、商品経済の統制を行ったのである。
 財政の窮乏に悩む諸藩は、封建的農村支配を維持するために、農村に商品経済が侵入するのを恐れながらも、藩財政救済のために、江戸、京都、大阪の商人の資本力に依存して、巨額の借金を重ねなければならなかった。しかも、その借金を返済するめどの立たない大名達は、大商人に対して、名字帯刀を許し、お家代々の什器を贈り、また、士分としておめみえ以上の待遇を与えるなどの優遇策を講じて借金を重ねていくのである。そして、この返済のない“大名借り”のため倒れていく商人も多かった。1728年(同13)に、京都の商人で、大名貸しで倒れた家が50家もあったという。いかに多くの大名が商人の資本に依存していたかがうかがえる。
 こうした大名と商人との関係の中で、また新しい形の大名貸しが生まれてきた。それは単なる金貸しではなく、藩の経済の内部にまで立ち入って、生産と密着しながら生きようとする方法である。
 こうした、京都、大阪の大商人と大名との癒着とともに、また諸藩の豪商とのつながりも大名貸しを通じて進んでいった。
 同時に、諸藩の経済は、一方では江戸、大阪、京都などの資本に依存し、他方では、藩内に力を得てきた商人に助けられながら、かろうじて藩を維持してきたのである。また、農村でも商品経済は米の商品化を通じて農村の封建的形態をつきくずしていた。
 大名は藩の商業資本に依存しきった財政と、商品経済にまき込まれながら変貌していく農村に遭遇した時、耕作の余力を有利な商品生産に向けるより他に道がないことに気付いたのである。
 こうして、諸藩の大名達は、米穀中心の経済から、商品経済へと突き進まなければならなくなった。
 封建社会の主であったために、こうした時代の流れをつかみ、その流れにうまく乗ることができなかった将軍吉宗は、思いのままにならぬ米相場と闘い、そして敗れ去ったのである。

<完>

(Futures Tribune 2015年4月10日発行・掲載)

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