コメ相場と格闘した八代将軍・吉宗【上】
徳川時代、財政窮乏から米相場と格闘しながら幕府を維持しようと苦心惨憺した将軍がいた。八代将軍吉宗である。
別名“倹約将軍”といわれ、また“米将軍”とも称された特異な存在であった。自ら反古紙の裏に書きつけた米相場表(浅草の米相場だったという)と、研究した資料をもとに、必死に米相場と取り組んだ。(「日本の歴史」中央公論)
たとえば、1727年(享保12)の末、それまで40匁台(一石当り)を割ったことのなかった米の相場が、諸蔵米の代表商品である広島米で36匁8分、中国米32匁8分、備前米37匁4分と、それぞれ下落してしまった。
それはさらに、1730年(同15)には、広島米29匁8分、中国米22匁2分、備前米28匁6分と、30匁台をも割り込んでしまった。
これは農村に打撃を与えたばかりか、幕府財政にとっても重大な危機を意味した。
将軍吉宗は、まずこのような農民や幕府の困窮を救うために、「何よりも米価を吊り上げる必要がある」と、1728年(同13)7月、米切手の転売を許可したのであった。
従来、米価騰貴の原因が、この米切手の売買であったから、禁止を解いたのである。
そして次に、「上方筋から江戸に入ってくる米は、本米問屋の8人以外は、引き受けてはならない」という法令を出した。同時に、諸侯に対して江戸や大阪に回す米を抑制せよと命じた。
だが、幕府は資金を出して、米の買占めにまで乗り出し、1731年(同16)、加賀藩に借金して江戸で買い付けた米は18万両、大阪では60万石という額に達したのである。「吉宗は米将軍だ」と言われたのは、この時だった。
ところが、1732年(同17)、今度は大凶作に見舞われて、米価は高騰した。30匁台以下が、9月に65匁、12月に120~130匁へと、4倍以上にはね上がってしまったのだ。しかも翌1733~34年(同18~19)へかけては大豊作で吉宗は、またも米価引上げに苦心することになるのである。あげくに、吉宗は1735年(同20)10月、米商に布令を出して、一種の米の公定相場を決めようとまで努力したというのだ。
しかしその公定相場は常に実情に合わず何度も改正したが、1736年(同21)6月、ついに廃止になった。
18世紀初頭の徳川時代が、急速に幕藩体制を崩壊させて近代化の呼び水となったが、当時の社会背景を見てみる。
幕藩体制の変化
徳川時代も18世紀に入ると、農業技術の進歩と新田開発等による耕地面積の増加により、生産力は大幅に増加していた。そして同時に、閉鎖的な幕藩体制的国内自給経済は大きな変化を見せ始めていた。諸藩の財政は、農民から収奪する年貢米を基盤としていたが、諸藩はこの年貢米を換金するための消費の狭隘な領内市場から、次第に江戸、京都、大阪の3都市を中心とする中央市場への進出を余儀なくされていた。生産力増長による藩経済体制の変化と、幕府の中央市場育成策から、中央市場への商品集中化が進み、元禄期には、京都・大阪は人口30万人の大都市に発展していた。特に大阪には全国的な商品流通を媒介しうる経済的機能を備えるまでに発展していたのだった。
この3都市の中央市場を中心とした商品流通という新しい経済体制は、諸藩の、城下町を軸とした領内市場により、自立した藩経済を営んできた体制をくずし、幕府の直轄都市を中心とする市場を通じて、商品経済の面からも、幕府の統制を受けるという事態を生み出したのである。
また一方、上からの経済統制に加え、諸藩では兵農分離による都市集住のため、武士の多くが都市生活を送っており、生活向上に伴う出費は増加する一方で、参勤交代制による江戸在住の出費は慢性的な諸藩の財政難に拍車をかけることになった。しかも、狭い領地からの増税や、家臣の俸禄削減による幕藩政増収にも限りがあり、結局は、大商人に依存し、借金を重ねる以外、道はなかったのである。
窮迫した藩の経済状態の中にあって、家臣の生活は実に惨めなものであった。とくに下級武士は、内職によってようやく生計を維持しているという状態であった。
また幕府の財政も、家宣が6代将軍となった18世紀初期には、家光以来の浪費と、綱吉のはなはだしい乱費により、ほとんど底をつくほどになっていた。さらに追い打ちをかけるように、相つぐ天災や大火による出費は幕府財政を重大な危機に追い込んだ。
浪人儒者出身の新井白石は、家宣の政治顧問として、この幕府財政難を乗り切ろうと、勘定奉行萩原重秀の行った貨幣の改悪を改め、新たに良質の正徳金銀を発行した。貨幣の信用回復を図り、金銀の海外流出を防ぐため、長崎新令を出して貿易額を制限し、また、朝鮮使節の待遇の簡素化を行って倹約に務めた。
だがこうした経済政策は、窮乏状態を根本から覆すには至らず、改革にはついになり得なかった。財政建て直しは、新しい政策による局面打開が必要だった。
吉宗の出生とその時代
世がまさに、元禄文化を迎えようとする1684年(貞享元年)、吉宗は御三家紀州藩主光貞の4男として生まれた。藩主の子でありながら、吉宗の生母が紀州家の婢女という身分の低い女であったため、幼年時代は家士の加納五郎左衛門のもとで養育されたという。1697年(元禄10)吉宗が14才の時越前丹生3万石の藩主に取りたてられたが、実収入は五千石ほどの雪深い北陸の小藩であったため、一国の主となってからの生活も、貧しいものであり、元禄の華やかな生活は吉宗には無縁のものであった。
ところが、1705年(宝永2)、紀州藩主となっていた長兄綱教が死亡し、引き続き跡をついた頼職が急死したため、婢女の子として送るべき冷遇の地より、吉宗は一躍にして御三家紀州の藩主となったのである。吉宗27歳の時だった。
吉宗は、紀州藩主となってからも、従来の質素な生活を捨てなかった。
吉宗の藩の経済政策は1707年(宝永4)の紀州を襲った大津波を機に、徹底したものとして打ち出されてくる。まず、先代から発行されていた藩札を停止し、家臣に対して20分の1の差し上げ金を命じ、経済の安定と財源の増収をはかった。さらに、藩邸の坊主、手代、小役人など80人の人員整理を行った。藩主生活の簡素化である。
吉宗のこうした経済政策は実績をあげ、紀州藩の財政は、僅かながら貯えさえできるほどに再建された。
将軍就任と享保の改革
吉宗が、藩財政再建によって、名君として世に注目された頃、1716年(正徳6)わずか4歳で将軍職についた家継が、4年足らずで病床に伏してしまった。将軍家継が8歳の若さで継嗣がないことから、御三家紀州藩吉宗に、その後見職という大役が突然に与えられることとなった。
吉宗は元禄以来の士風の退廃を一新するために、武芸を奨励し鷹狩りや馬追い狩りや水練を再興し、諸大名に対しては、財政を緊縮し、倹約を守るように、おふれを出した。
倹約令は吉宗の「享保の改革」の第一歩であった。
窮迫する幕府財政
だが1721年(亨保6)になって、旗本後家人へ支給する切米さえも滞りがちであるという、幕府財政が窮迫する事態が起きた。それはもはや、倹約のみでは解決できない問題となっていた。幕府は、緊急に財政再建策をたてなければならなかったのである。
翌年、幕府はやむなく参勤交代の制度をゆるめ、江戸在住期間を1年から半年に短縮し、その代償として、諸大名に石高1万石につき、100分の1の100石ずつ米を上納するという「上げ米の令」を出した。参勤交代は大名抑制策として最も有効な制度であった。それをゆるめるという事実は、幕府にとっては恥辱的な行為であったが、藩財政の窮乏の原因として、江戸住いの莫大な出費に悩んでいた諸大名にとっては、この「上げ米」の交換条件は、むしろ歓迎されるものであった。
しかし、上げ米の制は、単なる幕臣俸禄米の確保にしかすぎず、一時的な急場しのぎで、根本的財政建て直しにはなり得なかった。
米本位経済の上に成り立っている、封建体制における経済安定は、財政の基盤である、年貢徴収の確保と、年貢の増収に頼らなければならない。したがって、地方代官の年貢の中間搾取を排除した上で、増収をはかる必要が出てきた。そこで幕府は、代官の中間搾取を許している検見法を改め、1722年(亨保7)より定免法を実施した。検見法による年貢の徴収だと、年貢収入額が不定な上、代官の中間搾取による、実際より減収の可能性が強いが、定免法は、10カ年間の出来高の平均により租率を定めるのであるから、年貢の収入額は安定し、代官の中間搾取もなくなって、年貢を完全に確保することが可能になるのである。
定免法への改革により、ようやく幕府の年貢徴収は確保されたわけである。
次には、年貢の増徴をはからねばならない。検見法は農民にとってはその年々の作柄に応じただけの年貢を納めれば良いという利点があったが、毎年の代官の村検見の際の送迎供応は、大変な出費が伴う上に、検見が終わるまで、刈り入れができないという不都合なことが多かった。
吉宗はこれを強調し、定免法への改革で楽になった分を年貢として納入するよう代官に命じた。その結果、年貢率はそれまでの四公六民から五公五民に引き上げられた。
これら吉宗の財政再建策は、ようやくその効果をあらわし、幕府の年貢収入額は目にみえて増えてきた。しかし年貢増収を基礎として安定した幕府財政は、意外な形で危機を迎えた。それは米価を中心とした物価問題だった。
(Futures Tribune 2015年4月10日発行・掲載)
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