商取風土記~堂島米市場 ②
2023-07-30写真:戦前堂島河畔にあった米取引所
淀屋の取引は幕府公認のものではなく黙認の形で行われていたが、八代将軍吉宗のとき公許となり、また淀屋の取引では市場が狭くなってきたので堂島に各米仲買人、掛屋、両替屋などが集まり「堂島市場」をつくって引き移った。
幕府は米価を調整するため、しばしば大坂の米商人に米の買い上げを命じたが、大坂商人の財力は六十万石の米を買い入れるだけのものになっていた。
しかし帳合米の制度はいろいろ弊害がともなった。
相場である以上損することも儲かることもあり市場の契約は重く守らなければならないのが掟だがなかには儲かったら取り、損したときは払わない横着物があらわれたりしてルールが乱れた。こういう悶着から取引を時々差し止められたが、そうなると流通が不円滑になり、金融流通のうえに大きな支障をきたした。享保12年川口茂右衛門らが江戸に出向いて許可を懇願、この時の奉行が今日まで名高い大岡越前守で「古来よりの仕方により建相場勝手たるべし」という裁可を下しそれ以後市場は連綿として続いた。
この堂島米会所で行った帳合米商いという方法は、わが国の商品取引所で行われているセリ売買限月制度の原型で世界の取引所の歴史のなかでも強い特色をもつものといわれている。
だが幕末ごろの世の中がみだれ、米の値段の変動がはげしくなったので帳合米商いのような長い期間にわたる先物取引は危険と認識された。
そこで文久3年(1863年)これに代わって石建て米商いとした。この方法は帳合米商いとたいして変わっていないが限月をはじめ2カ月としたあとで1カ月に改め、決済期日の解け合い値段を最初は市場の建て物米の正米の出来値段の最近3日間の平均とし、あとで防長、筑前、肥後、広島四藩の蔵米の蔵屋敷での最近10日間の正米の入札値段平均に改めた。
明治維新になって明治の新政府は堂島の米商いは賭博行為であるとみなして明治2年に一斉禁止したが、明治4年にあらためて堂島米会所の設立を許可、限月米取引を行わせた。
この方法は難波御蔵米(摂津中米)を標準物として格付検査をしたうえ、標準物に代わる代用米の受渡しを許す標準米取引にし、決済期日までに反対売買によって決済できないものは正米を受渡しする仕組みになっており現在の清算取引に似通っている。
その後政府は明治9年に米商会所条例を公布した。この条例はこれまでの米会所の慣習を尊重するとともに弊害を取り締まるねらいからつくったもので、またこの条例の特色は取引所と仲買人の団体を切りはなし、取引所を営利会社にして経営させ、この会社の営利心を利用して仲買人を監督させようとした。わが国特有の株式会社組織の取引所制度はこのときにはじまったのである。
そして大正3年、はじめて商品取引所法(※筆者注:戦後の同名法とは異なる)が出され、それまでの延取引が定期取引と改称され、仲買人と取引所役員を兼ねることや仲買人の支店、出張所の受託行為禁止などが定められた。
やがて昭和12年日支事変がおこり、戦火が大陸に広がるとともに経済統制が強くなり、さしも栄華をほこった堂島取引所も昭和15年その門を閉ざすことになった。
任侠に富んだ気風
堂島の気風は任侠に富み、すべてに派手であった。
戦前、米取引の時代は株式とともに商工省取引課の管轄下にあったが、この頃は現在のように仲買店の出張所を許可せず、本店だけで営業していたわけだが、それでもひとつの店が難局になると、みんなが金を出しあってこれを救済した。とくに委託者には迷惑をかけてはいけないということが、モットーとなっており、「堂島の名誉」が何よりも重ぜられた。
同業者の救済などということもこの名誉を傷つけまいとするあらわれであるが、一方見ようによっては人のことにまでかまってやれるだけの力が充分備わっていたわけである。
旧幕時代から大名たちがここで米をさばいてもらっていたが、お大名の台所もワシらが預かっているんや、というプライドと実力が堂島のバックボーンだったわけである。
こういう気質だったので芸人や相撲取などをよく後援しており、芝居や角界には最大のパトロンであったわけで、切っても切れない縁があった。
こんな話がある。明治25年春、五代目菊五郎が大阪角座に出演したときである。
それまで大阪へ下ってきた名代役者は必ず堂島へ挨拶にいくならわしとなっており、その時はワラジ履きでいくのがこれまでの習慣だった。だが五代目はこういう習慣を嫌ってかワラジを履かず、普通の履物をはいて挨拶にいった。こんな風だったので挨拶もよくなかったらしく、堂島の有力筋から「菊五郎の挨拶がよくない」という声が出た。こういう苦情が出たのでは初日の幕があかないのである。劇場も役者もあわてふためいた。この時は顔役が仲に入り、菊五郎はいままでの習慣通りこんどはワラジ履きで挨拶をやり直し、芝居は 4、5 日おくれて開幕したという話が残っている。
(以下、続く)
(Futures Tribune 2024年7月12日発行・第3298号掲載)
リンク
©2022 Keizai Express Corp.