商取風土記~堂島米市場 ①
2023-07-22写真:戦前堂島河畔にあった米取引所
堂島取引所のコメ先物本上場申請が6月21日に認可され、8月の取引開始を前に準備が進められている。今から300年前の1730年(享保15)、八代将軍徳川吉宗の時代にコメの値段を決める堂島米会所が幕府の認可で創設された。堂島浜通りの大江橋(御堂筋)から渡辺橋(四つ橋筋)の間に1,351の米屋が軒を連ねていた堂島米会所の米市は、先物取引の聖地として世界中の金融関係者に認知されている。本連載では「商取風土記」と題し堂島米市場の勃興から発展の歴史を振り返る。
堂島米市場のおこりは太閤秀吉の軍用米調達から発足したものだといわれている。それが徳川時代に引きつがれ戦前の米穀取引所から現在の堂島取引所へと及んでいるのである。
秀吉が朝鮮征伐の群をおこしたとき、大坂に兵糧として全国から大量の米を集めた。秀吉はこの軍用米の集荷を大坂商人淀屋「个庵」に命じた。
淀屋は秀吉が信長の一部将であった時代からの米商人でその宰領を任されていた。
この个庵以来淀屋は豪商として鳴らしていたが、常安の代になって中之島を埋め立てて土地をつくり常安橋を架けた。常安の孫が淀辰こと淀屋辰五郎である。そして大坂市中の米はみな淀屋の店に集まり売買されるようになった。
大阪城が落ち豊臣氏が滅んで天下の権力は江戸へ移ったが、江戸が武権の都として栄えたのに対して大坂は商人の都としてその経済力は衰えなかった。
とくに徳川三代将軍家光のときから一国一城の制が敷かれ、参勤交代の制が設けられるようになり各大名は国許と江戸の往復その他に莫大な費用がいるようになった。
当時、武士の収入は領地の農民から取り立てる米と郷土の特産品しかなかった。とくに米は食べ料を残してあとは金に替えねばならず、広い市場を必要とした。
大坂はすでに天下の台所として全国各地の物資が集まってきてさかんに取引されていた。各大名は競って大坂に蔵屋敷を作り、そこへ米や物資を送って市場で売買させた。
このため堂島川、土佐堀川を中心に二百にも及ぶ蔵屋敷ができたといわれている。
そして需要供給のバランスと、豊凶その他の時々の事情により米の値段は高低を示した。つまり「相場」ができたのである。
この相場をきめるのが米市場であり、のちの米穀取引所なのである。
淀屋の店頭には米仲買人、掛屋両替屋、米問屋、札差などあらゆる米商人が集まってセリ売買による米の先物取引を行い「延米取引」とよんでいた。
淀屋は延米取引の仲買をする最初の店であったが、この取引には一般のものまで参加するようになり淀屋の店頭は連日門前市をなすほどの賑わいを呈し、夕刻になっても人が去ろうとしないので淀屋の小僧がいっせいに出て道に水をまいて群衆を散らせこれを立会終了の合図にしたといわれている。
(以下、続く)
(Futures Tribune 2024年7月9日発行・第3298号掲載)
リンク
©2022 Keizai Express Corp.