戦後の商品取引所復活劇【下】
2024-04-08東繊ビル全景
昭和25年8月に商品取引所法が施行され、全国各地から繊維系の商品取引所設立要請がGHQに寄せられた。だがGHQは戦後第1号の商品取引所として大阪化繊取引所を設立認可し、取引の様子を見ながら後の取引所について判断する意向で、つまり大阪化繊取の認可は試験的な意味合いが強かったのである。
一方で法の規定(第14条)には取引所の登録申請において、申請の受理後60日以内に登録されなければ申請は無効となっており、従業員まで雇って市場開設を準備していた取引所関係者の焦りは相当なものであった(※当初、取引所設立は許可制ではなく登録制であった)。ついに繊維業界は「登録が遅れた場合はGHQの責任である」と強気に迫った。さらにGHQが疑問視していた、狭い国土に複数の同一商品取引所が必要なのかという点についても、「東京~大阪間の電話がつながるには通常2~3時間かかる」と当時の脆弱な通信事情を強調して説得に臨んだ。
この当時GHQと通産省商務課の通訳を担当していたのが、後に東京工業品取引所の理事長となる間渕直三氏である。後年同氏を取材した木原大輔氏によると、「戦時統制の撤廃に当たって、価格を誰がどう決めるのか等から始まり、そのインフラ整備のために、『自由経済の象徴』である商品取引所の開設は当然という、一般論的認識以外の何ものでもなかった」とのことで、中身の薄い交渉であったことを述懐していた模様だ。
これはGHQサイドに商品取引所に関する専門家が不在であったことを示している。だが当の通産省も担当者が皆素人であった状況は変わらず、「建玉」の読み方に対して「タテダマ」か「ケンギョク」かといったレベルの議論が真剣に行われていたようである。戦後の商品取引所黎明期は、ある種牧歌的な雰囲気も垣間見える。
昭和25年(1950)に施行された商品取引所法については、GHQの管轄であったことから同11年(1936)に本国アメリカで施行された商品取引所法がベースとなって条文整理が行われた。この点について、かつて防長新聞経済部長、日本用品取引員協会理事・商品先物取引研究所長などを務めた故・木原大輔氏は疑問を呈している。
それはアメリカの同法がすでに委託者資産と取引業者の自己資産との分離保管制度を導入していたのに対し、日本の同法は分離保管制度がない上に大衆化を前提としない当業者主義を貫き、さらに徹底した自治主義により商品先物業者の資格・設立を登録制と定めた点についてで、これらが後々に禍根を残すこととなるが今回それは措く。
なお当時の商品先物関連の立法作業は大蔵省が所管しており、同省理財局経理課が担当していた。同法の制定は吉田信邦課長のもとで進められたが、同氏は戦後間もない当時立法案件を4つ抱えており多忙を極めていた。そこで大蔵大臣と通産大臣を兼任していた池田勇人氏に同法を大蔵省所管から通産省の所管に移管することを進言した。
これが影響して25年2月27日の閣議で、商品取引所関係の法案は大蔵省から取り扱い物資別に通産省と農林省(現・経産省と農水省)に分割移管することとなった。これらに関する詳細は、前述の木原氏が54年、吉田氏本人に取材し聞き出したものである。また分割移管の際、それまで通産省が所管していたアルコールの専売が、商取法と交換する形で大蔵省所管に移ったとされている。
通産省はこの移管を受け企業局内に「商務課」を新設し、初代の商務課長に倉八正氏を充てた。
商取法はその後も様々な交渉経過を経て25年5月2日、第7国会最終日で可決成立が確実視されていたが、この段階でハプニングが起こった。同日の衆議院本会議が別の法案の審議で大荒れし、その煽りを食う形で「審議未了」となったのである。審議未了は継続審議と異なり、それまでの審議過程がリセットされる。つまり初めから国会上程手続きをやり直さなければならず、関係者は顔面蒼白となった。
だが、慌てふためきながらも総力を挙げて商取法を次回の第8国会に滑り込ませて可決させた。同法は25年7月26日に参議院本会議、翌27日に衆議院本会議を通過し、8月5日付で「昭和25年法律第239号」として公布された。そこから繊維系の商品取引所が次々と全国に誕生する運びとなるが、その裏には薄氷を踏んだ商取法施行に至る物語があったのである。
(完)
写真出典:東京繊維商品取引所二十五年史.東京繊維商品取引所,1979.
(Futures Tribune 2024年2月29日発行・第3272号掲載)
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