近代コメ流通機構の形成[明治期編]【1】

 堂島取引所のコメ先物市場が2022年6月20日、事実上取引を終えた。新潟コシ、秋田こまち17、宮城ひとめ18、東京コメの4銘柄について、最後の限月が納会した。昨年3月22日に上場した新潟コシヒカリの輸出米「新潟コシEXW」のみ取引は可能だが、上場来出来高はゼロでこれも来年には取引が終了する。コメの指標価格については現在、農水省が主導する形で現物市場の設計が進められているが、設計案の初期段階で現場からは早くも失望の声が上がっている。日本の主食であるコメの取引市場の重要性を再考する意味で、明治期に遡り近代流通市場の形成過程を振り返ってみたい。

資本主義の定着とともに再編されたコメ流通

 1881年、大蔵卿に就任した松方正義は、西南戦争で不換紙幣を増発し膨張し切った財政を緊縮し、紙幣を整理するという大鉈を振るった。いわゆる「松方デフレ」の始まりである。この影響をもろに受けたのは農民で、紙幣回収が本格的に始まると、1882年12月には東京正米平均米価が前年末比で3円安の7円78銭と大幅に下落し、翌年も安値状態のままとうとう4円台に至る下げ相場が続いた。1884年の不作で下げ基調は一服したが、大多数の農民は窮乏の底で生活苦にあえぐ結果を招いている。
 1890年に入るとようやく日本に資本主義が定着し、発展の動きも見せていた。混乱の一時期、豪商らへ完全に依存していたコメ流通も、旧来の取引を基調に発展してきた在来のコメ商人が主権を握ることとなり、生産地と消費地で経済圏の機能分離が促進され、コメは新たな流通形態へと移行していった。以下、明治期に誕生した東京を代用する3カ所のコメ市場について、その変遷をみておきたい。

[兜町市場]
 明治期の東京で、コメ先物市場が政府の認可を受けたのは1871年(明治4)3月だった。当時コメの現物取引を行っていた三井八郎右衛門らの貿易商社が再三の陳情を経た成果であった。これにより兜町でコメの限月取引が始まった。
 コメ先物市場開設の下地においては、その前振りとなった出来事がある。明治政府が成立した1868年、コメの不作と維新移行による内乱鎮圧を目的とする金札の濫発で米価は暴騰したが、新政府はコメ先物市場の投機が原因と断じ、これを賭博とみて1869年2月、堂島をはじめ全国コメ市場における先物取引をすべて禁止した。ところが情勢はまったく変わらないどころか、先物市場の閉鎖で指標価格を失った米価はより奔騰したのである。
 米価暴騰を鎮火させるためには東京へのコメ輸送拡大が必須であったものの、それは完全に貿易商社頼みとなり政府としてはなす術がなかった。幸い翌1870年にはコメが豊作となり、米価はようやく下落し落ち着きの兆しをみせたが、ここで先物市場の復活に向け動いたのが冒頭の貿易商社であった。
 この時陳情を行った貿易商社は、もともとは築地の外国人居留地での外国人による対日貿易に対抗するための組織で、日本の商権を確立するとともに海外通商への道を切り開くため、政府の肝煎りによって三井、小野、島田の三豪商をはじめ江戸の豪商を糾合して作られた官製組織で、錚々たるメンバーで構成された一種の寄合所帯であった。東京市中の有力な商人はことごとく加入しており、ここに問屋や仲買なども加わって規模を大きくし、傘下の商人のため①商品売買の仲介、②商品相場市場の開設、資金融通の媒介―など多岐にわたる業務で盛況を博した。
 なお政府はこの貿易商社のため、鉄砲洲に敷地6,000坪と本所御蔵2カ所を与えている。創業時からコメの現物取引も行ってはいたが、当初は主力の業務ではなかった。先物市場認可後の1871年11月、貿易商社は現在東京証券取引所が建つ場所に移転し「東京商社」と改称され、後に「兜町米商会所」となった。この時、堂島米会所が導入していた定期取引の仕法を採用し、先物取引に対する本格的な体制が整備された。

[蠣殻町市場]
 1874年8月、後の東京穀物商品取引所となる「中外商行会社」が蛎殻町1丁目に設立された。同社は兜町の東京商社に倣い先物取引の開設を政府に申請し、認可を受けた。これについては渋沢栄一など開明的な識者の努力や、政府が法体系の整備のため雇ったフランス人のボアソナードが尽力した結果とされている。それに加えて、当時は築地居留地に次々開設された外商による非公認の空米取引が横行し、正規のコメ取引に大きな障害が出るとの懸念があったためとされている。
 同社の位置は西郷隆盛の屋敷跡で第五国立銀行の前でもあり、木骨石張ではあったが立派な塔屋を構えていたことで、当時の錦絵にもしばしば取り上げられた。取引所の格式では兜町の東京商社に軍配が上がったかもしれないが、実は営業成績では蠣殻町が勝っていた。開設当初から市場は繁栄し、当時の新聞紙上にも「米相場の王座、堂島よりも蠣殻町」(明治8年12月8日、朝野)と、中外商行を称える記事が掲載されている。

[深川市場]
 江戸の三豪商の一角である小野組が1874年10月、倒産した。政府は小野組が請け負っていた、米穀の荷受けや廻送方を渋沢栄一の従兄弟である渋沢喜作に依願し、まず仙台米の廻送に当たらせた。2年後の1876年10月には山形県から荷受けの申し入れがあったが、渋沢はこれも引き受け第一銀行と米手形により決済している。こうした渋沢のコメ販売事業は深川の組合事業となり「米穀荷扱所」と呼ばれていた。
 この頃から兜町、蠣殻町の両市場は徐々に先物取引に事業の重心を移し始めており、1883年に両市場が合併して「東京米商会所」になると、完全に先物取引の専門市場へと変遷した。これを受け政府は東京府知事に対しコメの現物流通に係る取扱機関を設置するよう指示し、渋沢や三井代表の益田孝ら有志5人は協議の末、深川の組合に小網町、兜町、小舟町、本舟町にあった正米市場も合流させ1886年、廻米問屋組合として正式に認可を受けた。これが「深川正米市場」(東京廻米問屋組合深川正米市場)である。深川は東京におけるコメ流通に大きく貢献し、本所竪川などにあった「脇店」と呼ばれる地廻り米の問屋にも、深川と同様に現物取引を扱わせた。これにより近代的なコメ流通機構の土台が形成された。

(Futures Tribune 2022年6月21日~28日発行・第3150号~3152号掲載)

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