金先物市場が生まれた日【9】
2023-05-01東京金取引所の会員認可を受ける商品取引員の定数を30社と決められ、認否ギリギリのラインにあった業者は会員資格を得ようと躍起になっていたが、結局この枠は40社まで広げられた。第1次会員(=原始会員)は取引所の設立(1982年2月8日)とともに定まったが、その後当業者会員3社以上の推薦を条件に第2次会員の募集を行ったところ全国各地から申し込みが殺到し、第3次、第4次と会員募集を継続した(下記参照)。一方、当業者となる商社筋との繋がりが薄い取引員は、全協連へ問い合わせるべく一斉に電話し、事務局が対応に大わらわとなる。
金先物取引、開始時点で参加業者が144社に
金取引所の第2次会員募集においては、1982年2月5日、全国商品取引員協会連合会(全協連)を通じ既存の取引員に会員申込書を配布し、早急に申し込みを行うよう通知した。だが当業者会員3社以上の推薦状が申し込みの条件であり、商社筋と付き合いの薄い取引員から「どうやったら推薦状がもらえるのか?」との問い合わせが週明けの8日に殺到し、全協連の電話は鳴りっ放しの状態となった。
金取引所は10日に理事会を開き、上記の状態を踏まえ2月17日に定まる取引員会員も推薦状の対象とする決議をした。これによりカネツ商事、豊商事(現・豊トラスティ証券)、岡地、岡藤商事など、初回審査で認可が予想される既存取引員の推薦状により第2次審査を受けられるようになる。
申込書の審査項目については、①過去6カ月に金地金等の取り扱いが10キログラム以上あること、②純資産額が定款で定める最低額(2,000万円)を充分に満たしていること、③過去においてブラック業者等に参画していないこと―であった。
結果的に金取引所への参加業者数は取引開始の3月23日までに日を追って増えていき、取引開始時点で144社にもなった。
わずか2年3カ月で上場実現、看板商品「金先物」が誕生した日
様々な難局面を乗り越え、1982年3月23日、東京金取引所は役員体制および事務局体制が固まり初立会いを迎えるに至った。金上場運動への号砲となった、自民党の安倍晋太郎政調会長による81年暮れの爆弾発言からわずか2年3カ月だが、商品先物業界にとって大きな夢の実現へと至る濃密な期間であった。既存のプラットフォームに新商品を追加するのではなく、無からすべてを作り上げたのである。この時、金上場に尽力した先人の努力がなかったら、今の日本で商品先物市場が存続していたかどうかも疑わしい状況といえる。
3月23日、東京金取引所の立合い初日は世間の大きな注目を集めた。取引所には報道陣が詰めかけ、NHKなど各テレビ局のカメラ、新聞記者、雑誌記者でごった返し、立会場の廊下まで溢れた。9時半から模擬立会い、9時50分から記者会見が始まり、10時半から渡辺佳英理事長の挨拶があった。
壇上で「小さく生んで大きく育てていき、1日も早く国際的取引所としての経済的機能を十分果たし、世界のニーズにこたえ得る市場に育成していきたい」と、通産省の方針に沿った挨拶をしている。
国内初となる金の公設先物市場となった東京金取の初立合いは、前場2節の期先3限月のみ立会いが行われ、出来高は6月限241枚、7月限253枚、8月限532枚の計1,026枚となった。
ただし、金流通の中核をなす日本金地金流通協会は金を投機商品とすることに反対し参加を拒否したが、当時の金価格はグラム2,500円を割り込むほど暴落しており、少し前に店頭に列を成してまで高値買いをした投資家は甚大な被害を被っており、先物市場が有するヘッジ機能を啓蒙する絶好の状況でもあった。
なお初立会い後はホテルオークラの平安の間にて800人の来賓を迎え盛大なパーティーが始まった。商品先物業界の当事者にとって、この日の酒の味は終生忘れえぬものとなったはずである。
(連載終わり)
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