金先物市場が生まれた日【5】

2023-03-20

「安倍―斎藤ライン」で金取引所創設が現実味帯びる

 金先物上場に向けた大きなムーブメントは1980年12月26日、自民党の安倍晋太郎政調会長がパーティー会場で「金取引所を創設すべき」との爆弾発言から始まったことは前回で述べた。発言の詳細は「年末の忙しい時に、各方面から予算配分の要請があるが、政府は打ち出の小槌を持っているわけではないからカネがない。今日のパーティーは商品先物取引の本の出版記念会で、商取業界の方々も多勢いらっしゃる。ひとつ金の取引所を作って大いに商いをしてもらい、取引税をたくさん払っていただき、そのカネを政府が、カネが欲しい人たちに有効に配分する。また、金取引所を作ることにより、私設金市場の悪い業者も退治できる。まさに一挙両得、一石二鳥ではないか」というものだった。
 なお木原大輔氏の出版記念パーティーは同郷である下関の有志10人が自主的に行ったもので、約200人が集う大掛かりなものだったが、政治家の参加は安倍政調会長、斎藤栄三郎参議院議員、林義郎衆議院議員(後の厚生大臣・大蔵大臣)の3人だけだった。
 もっとも安倍政調会長の爆弾発言に至る背景には、同年夏頃、商品先物業者の北辰グループ総帥であった北内正男氏長女の結婚式で安倍政調会長と豊トラスティ証券取締役相談役の多々良義成氏が、当時の金問題について語り合い、陳情に及び、理解を得ていたという地ならしもあった。
 また商品先物に対する広告規制が厳しい中、これを啓蒙するため日経系列のテレビ東京で「斎藤栄三郎のけいざい最前線」を1年10カ月続けた斎藤議員も、実は金取引所の設立について独自の根回しを行っていた。水面下で福田赳夫総理に働きかけを行ったものの、1979年5月に持ち込んだ政調会(当時の政調会長は河本敏夫衆院議員)で時期尚早と見送られ、次のチャンスを狙っている最中でもあった。こうした状況下で目下の爆弾発言を受け、挨拶を終えた安倍政調会長に斎藤議員が「この仕事はぜひ私にやらせてほしい」と直談判し、安倍氏も快諾した。
 この模様をパーティーに参加していた産業新聞非鉄金属特捜部の記者が翌日の紙面で大々的に報じ、金取引所設立問題は一気に進展していくが、寝耳に水の状態で話を受けた大蔵省、通産省、金地金商などは、その後激しい抵抗を見せていくことになった。


「金市場問題懇談会」設置、大蔵省vs通産省の綱引き本格化

 爆弾発言翌日の1980年12月27日、斎藤議員が早速動き出し、商品先物業者の経営陣を招集した。だがその日は大納会で、経営陣たちはすでに年末年始のスケジュールが埋まっていたため、年明けを待つことになった。翌1981年1月7日、斎藤議員と商品先物業者の経営陣たちは作戦会議を開いた。13日にはご母堂の墓参から戻った安倍政調会長のもとへ陳情に及び、次いで中曽根臨時総理(当時)に報告し、鈴木善幸総理の帰国を待って準備を整え本番に臨んだ。
 自民党政調会ではこの間、「安倍―斎藤」ラインにおける申し合わせのとおり、政調会内に「金市場問題懇談会」(斎藤栄三郎座長)の設置が進められたが、ここで大蔵省と通産省の綱引きが本格化した。
 大蔵省は政調会傘下で常設の「財務部会」で議論すべきと主張し、通産省はやはり常設の「商工部会」でやるべきだとした。結局折り合いがつかず、上記懇談会の設置に至ったが、会の名称でも揉めた。
 大蔵省は市場を抜いて単に「金問題」にすべきだとし、通産省は「金市場問題」だと引かなかったが、これは安倍政調会長の強い意向で「金市場問題」で決着がついた。
 懇談会のメンバーは財政部会、商工部会の正副議長のほか有志が幅広く集まり、党内の関心の高さをうかがわせた。主なメンバーは以下のとおり。小泉純一郎、越智通雄、細川護熙、稲垣実男、大原一三、池田行彦、藤井裕久、梶山清六、鹿野道彦(敬称略)。
 初会合は1981年2月19日で、以後3月23日の取りまとめまで約1カ月の間に6回というハイペースで会合を開いた。

[第1回](2月19日)
通産・大蔵両省担当官から意見聴取
[第2回](3月5日)
大蔵省担当官から意見聴取
[第3回](3月11日)
金地金関係業者の代表5者から意見聴取
[第4回](3月13日)
商先業界関係者3氏(多々良義成全協連会長、清水正紀カネツ商事会長、有賀要之助東繊取専務)からの意見聴取
[第5回](3月18日)
商社および宝飾等実需筋の代表6者から意見聴取
[第6回](3月23日)
銀行および証券会社の代表2者から意見聴取

 この6回の審議を経て懇談会は5項目を入れた答申を出し、その翌日4月2日付で安倍政調会長は田中六助通産大臣、渡辺美智男大蔵大臣、宮澤喜一官房長官に向け「金市場の設立」についてその実現を要請した。
 これを受け通産省は翌3日、既設の金市場問題検討会を開き、金先物市場の設置について前向きであるとの考え方を明確に示した。つまりは反対の立場からの方針転換であったが、これには省内人事も絡んでいた。
 金取引所設立に対し強固に反対姿勢をとっていたH商務室長が転出し、1980年8月18日付で後任に江崎格氏(後の東京商品取引所社長)が就任していたのである。金取引所設立に向け身を挺して挑んだ江崎氏の役割は非常に大きかったといえるだろう。

(以下、続く)

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