オプション取引の起源から米国先物市場の確立まで【下】
2023-10-06シカゴ農業のイメージ図
取引所の誕生と発展~アントワープに設立
世界初の商品取引所は1531年、アントワープに設立された。穀物や香辛料といった日用品の先渡し取引が行われた。
イギリス王室金融代理人のトーマス・グレシャムは、アントワープの取引所を参考にして、ロンドンに為替とコモディティを扱う取引所を作った。これが1571年、王位のザ・ロイヤル・エクスチェンジとなる。だがロンドンの株式ブローカーは当時マナーの悪さから取引所に入れてもらえず、最初は外の通りで、後には近くのコーヒーショップに集まるようになった。
これがジョナサンズ・コーヒーハウスで、ここが1748年に火事で焼け、その後再建された新ジョナサンズが1773年「ロンドン証券取引所(LSE)」と命名されるに至る。
18世紀になると、商品取引所は中世の定期市の慣習にならって、自主規制のルールや調停及び施行の方法を取り入れた。中世の定期市は交易慣習を定着させ、近代商業の発達に重要な貢献をした。それはやがて地方当局の指導基準を制定した法典となり、商人法として中世のイギリスで知られるようになった。その基準は最小限のものだったが、契約手続き、売買証書、船荷証券、倉荷証券、信用状、証書の書換え、取引所のその他の証書についての慣習の基礎となり、この法典の規定を破った者は、同業者から追放されることもあった。この自主規制の原則は、イギリス一般法の中に見られ、アメリカ植民地にも受け継がれて各州で適用された。
イギリスの商人組合は、規制の自主管理権を、地方および国家の政治当局から獲得し「市場の法廷」を設置した。それは「Pieds Poudresの法廷」とも呼ばれ、買い手と売り手との間の争議を調停し、罰金や損害賠償金の査定をすみやかに行った。この法廷の権限は、14世紀にイギリス慣習法で正式認可を受けた頃には、すでに地方裁判所のそれを上回っていた。
取引所の発達は、ヨーロッパ各国だけではなく、同じ時期には日本やアメリカでも始まっていた。日本の商品取引所の設立は証券取引所より1世紀半近くも早く、1700年代にさかのぼる。ヨーロッパやアメリカでは普通、証券市場が商品市場に先行して設立されたが、日本のパターンは逆であった。
アメリカの商品市場~取引所設立で進んだ環境整備
1725年には早くも、ニューヨークに国内産品を売買する取引所があり、他の都市でも次々と発達していった。今日、これらは全く残っていないが、初期の市場は、取引の場を提供するだけでなく、生産者や消費者のみならず、いろいろな企業、ブローカー、船主、金融業者、そして投機家などを引きつける機能をもっていた。
初期の商品市場においては、即時受渡しを伴う現物取引が行われ、食料、飼料、繊維、獣皮、金属、木材等あらゆる商品の取引を容易にし、範囲を広げることに大いに役立った。しかし、これらの現物取引や述べ取引の慣習は、基礎商品の生産者を悩ませてきた需要と供給の急激な変化、それに伴う価格の変動に対処できるほど十分なものではなかった。
1800年代初期には、農民は穀物や家畜を、毎年一定の日に地方市場に持ち込むのが一般的だった。当時は肉や穀類の供給が、精肉業者や製粉業者の当面の需要をはるかに上回っていたため、加工業者はこれらの商品を最も安い価格で買い叩いていた。したがってどんなに価格が下がっても、短期需要は供給過剰を吸収することができず、商品は買い手のないまま通りに捨てられることが多かった。
さらにシカゴの取引状況は、倉庫の不足と交通機関の不整備のため、特に悪化していた。一年中ほとんど、雨や雪のために、農業地から都市への道がぬかるみ通れない状態が続いていた。
商品が都市に運ばれても、買い手は保管場所の不足に悩まされた。港湾設備も整っていなかったので、東部市場への穀物輸送はもちろん、帰り便となる西部市場への製造品輸送もままならなかった。
そこで商品取引所は創立してすぐに、交通機関と保管方法を改善する必要性を認め、輸送路の整備、内陸水路の建設、倉庫や港湾設備の拡充などの政府の施策を促した。取引所は、これらの環境整備に大いに貢献したのである。
しかしこうした努力もしばしば財政上、立法上の失敗で立往生し、暗い市場状況が続いた。収穫期の商品の供給過剰は、問題の一部分にすぎず、凶作と極端な品不足に悩む年もあった。豊作の年でさえ供給が底を尽き価格が高騰したため、秋の収穫期が終わって穀物や家畜を市場に出してしばらくすると、もう品不足になった。
事業を続けるための原材料がなく、倒産する者もいた。こういう状況のため、生産者は自分達の食料は十分にあっても、それを売ることができないため、工具、建築材料、織物など必要な加工品を購入することができなかった。
米国先物市場の確立
こうした悲惨な状況に対処して、農民や商人の中には将来の受渡しを前提に契約する延べ取引を始める者も出始めた。これにより、少なくとも売り手は買い手を確保することができた。1833年、シカゴが市になってすぐ、この延べ取引は慣習化した。1848年、各分野から集った82人の事業家がシカゴ・ボード・オブ・トレードを創設し、現物取引とならんで延べ取引が開始された。南北戦争で需給はより複雑化し、先物取引の発達を促した。述べ取引は、売り手が買い手を、買い手が売り手を見つけるという、基本的な問題を解決した。しかし穀物の不作、海運事故、保管・輸送の不整備あるいは経済的要因などによって発生する価格変動と、財務上のリスクが解決するまでには至らなかった。これらのリスクヘッジを目指して、先物取引は発達して行ったのだった。
1871年のシカゴ大火で記録のほとんどは消失してしまったが、シカゴ・ボード・オブ・トレードでの先物取引の開始は、1860年代であることが定説となっている。
19世紀後半は取引慣習が形式化され、契約様式の統一、運営規則、清算、決済方法などが確立された。取引所は会員の経済的立場を反映させ、輸送・貯蔵・金融問題のスポークスマンとなり、米国で先物取引が浸透していった。
(Futures Tribune 2017年5月26日発行・第2747号掲載)
出典:(株)経済ルック発行の書籍
リンク
©2022 Keizai Express Corp.